事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。 Ⅰコリント1:21
私の思考回路は、シナプスの一本一本に至るまで「この世の価値観」に汚染されています。
この世で「知恵」と呼ばれていること、「賢明」と言われていること、「価値がある」とされているもの、それらの価値観はすべて「人間の知恵」によるものであって、「神の知恵」とは全く異なります。
私は日々、自分の持っているボキャブラリーの再点検を余儀なくされ、「人間の知恵」という手垢にまみれた語彙の意味を、「神の知恵」である聖書に基づいて、再構築させられています。
これまで周りの人が私に求めてきたことと、神が私に求めておられることも、全く異なります。
このエンドレスなパラダイム・シフトは、この世の価値観に汚染されてきた期間の長い私にとって、非常に骨の折れる地味な作業です。
その過程では、多くのことを考えさせられます。
そのひとつは、頭で「理解すること」と、心のレベルで「得心すること」は、同一延長線上にあるのではなく、まったく別の次元にあるのではないかということです。
理解したことと、得心したことの違いは、その人が「何を語っているか」ではなく、「何をしているか」によって、あからさまにされます。
その人の行動に変容が見られないとすれば、それは本当の意味で「わかっていない」のです。
私は聖書の多くのみことばを知っていますが、それらがほとんど私の身についていないことを見せられます。
では、どうしたら得心レベルに飛躍できるのでしょう。
私の乏しい経験から言えば、それは「失敗すること」に尽きるのではないかと思うのです。
「この世の知恵」では、失敗は恥、また悪であり、あってはならないことです。
しかし、私は自分のささやかな成功体験から、何かを学べた記憶はほとんどなく、むしろ成功体験は、愚かな私をおごりと慢心に導く結果となりました。
失敗体験は、喜ばしいものではありませんが、自らの振る舞いを注意深く再点検するよい機会となり、二度とこんな痛い目に会いたくないという思いは、確実に行動の変容を促します。
若くして東京に出向した時、新しい上司が私に、「何でもやりたいことを思い切ってやれ。責任は全部、俺が引き受ける」と言ってくれたことを思い出しました。
生来恐れを知らない私は、期待以上のことをしでかしては、お叱りを受けることもしばしばでしたが、それによって彼のポリシーが変わることはありませんでした。
彼は若者たちに、いつもそのように語り、それゆえ彼らは、いつも生き生きと楽しそうに活躍していました。
彼は、人は失敗を通して成長するということを、熟知しておられたのだと思います。
母親たちは、幼い子どもたちが失敗しないようにと、危険なものを次々と取り除こうとしがちです。もちろん、いのちに関わる危険は、取り除く必要があるでしょう。
しかし、子どもたちには、「石につまづいて転ぶ権利」があると思うのです。
彼らは転ぶことで、転ぶ痛みを身をもって味わい、顔から落ちるのではなく、手を先について身を守ることを覚え、転ばぬ先に足元に注意することを学んでいきます。
彼らが転んだときに、「ほら、だから言ったでしょう!」などと、鬼の首でも取ったかのように、子どもを責めるなら、彼らは失敗に屈辱感を覚え、臆病で意固地な子どもになってしまうでしょう。
しかし、賢い父である私たちの神は、私たちが失敗を通して得心し、成長する者であることをご存知で、おおらかに見守っていてくださいます。
寛容な神は、私たちが失敗しても、とがめだてすることも、見放されることもなく、「失敗する権利」を与え、転んだ後で、必ず、やさしく手を差し伸べて、教えてくださいます。
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 ヘブル12:10-11
先日、眼科の待合で、おじいさんと看護士さんが、こんなやりとりをしていました。
「眼鏡をかけてもらって、15分くらい経ちましたが、調子はいかがですか。」
「前の眼鏡よりも、良く見えるようになったけれど、頭が痛くてたまらない。」
「そうですね。頭が痛くても、良く見える方を優先するか、見えづらくても、頭の痛くない方を優先するか、それはご自身が選ぶことですね。」
結局、そのおじいさんは「頭の痛くない方」を選択されたのですが、私たちの歩みもそのようなものかも知れないと思いました。
神を見たい、神をもっと知りたいと願うならば、私たちはある種の痛みを避けて通ることができません。
「神を見ること」を優先するか、「痛くないこと」を優先するかは私たち自身の選択です。謙虚な神は、私たちに自由意志をお与えになり、無理強いされることはありません。
舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい。」と言われた。
そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。 マタイ14:22-32
ペテロには、水の上を歩かなければならない必然性はありませんでした。他の弟子たちのように、無謀なことを考えず、おとなしく小舟にとどまっていれば危険にさらされることはなかったのです。
しかし、彼は神に近づくこと、神を経験することを願いました。
彼は水の上を数歩、歩み、誰も経験したことのない神のわざを体験しました。しかし、主イエス様から目を離して、風を見た途端、沈み始めました。
それでも主は、即座に手を差し伸べられ、ペテロを助けてくださいました。
主を愛し、また行動的であったペテロは、実に多くの失敗を経験しました。
彼の最大の失敗は、十字架にかけられようとする主を、我が身かわいさから、三度も「あんな人は知らない」と否んでしまったことでした。
「シモン、シモン(ペテロのこと)。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」 ルカ22:31-34
主は、「ペテロが失敗しないように」と祈られたのではなく、失敗しても「信仰がなくならないように」と祈られました。
確かに、ペテロは失敗しました。
しかし、この失敗は、ペテロの信仰をより強く、揺るぎのないものとし、飛躍的な成長を遂げさせる重要な契機となりました。
数多くの失敗を通して、それでも赦し続けてくださる神の底知れぬ深い愛を身をもって味わったペテロが後世に残した手紙は、今も、私たちクリスチャンを真に慰め、励まし続ける深遠な書簡となりました。
この慈しみ深く、知恵と恵みに富んだ父なる神様に、すべての栄光が帰されますように。
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。
けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 Ⅰペテロ2:19-21