いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「自分の義」を捨てる

 

あなたがたを義と認めることは、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。ヨブ27:5

 

実に考えさせられる聖書の一節です。

ヨブは神ご自身から、「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」(ヨブ1:8)と言われたほどに正しい人でした。

私たちクリスチャンは皆、ヨブの優れた人格と正しさを知っています。しかし、このヨブの発言には誰もが違和感を感じるのではないでしょうか。
ヨブの発言の主旨はこうです。「あなたがたは正しくない。しかし、私は絶対に正しい。」

たぶん、「私は正しい」という発言、思い込みそのものが、「正しくない」のでしょう。義人はいない。ひとりもいない。 (ローマ3:10)と書かれているとおりです。

 

私たちクリスチャンは、神様に喜ばれる生き方をしたいと願います。正しい生き方をしたいと願います。その姿勢は素晴らしいことだと思います。
しかし、私たちは地上でこの肉体にとどまっている限り、決して神様の求める正しさに到達することなどあり得ません。

私たちはどこまでも不完全な人間です。
被害者意識は地獄の門に書いた通り、アダム以来、私たちはとことん「自分は正しい!」と主張したい存在なのではないでしょうか。

いったい、私たちは誰に向かって「私は正しい!」と言っているのでしょうか。人間に向かって言っているに過ぎません。人間同士で「正しさ」を言い争って、何の役に立つのでしょう。

 

あなたは正しすぎてはならない。伝道者7:16 

 

「私は正しい」という言葉、思いは、傲慢の実です。
「私は正しい」とは、「律法の奴隷」の言葉です。その人は「私の正しさ」を貫き通すために、多くの矛盾を取り繕って、奴隷のように苦しい歩みを続けなければなりません。
主イエス様は、私たちをこのような「律法の奴隷」から贖い出すために、いのちをお捨てくださったのではないでしょうか。

 

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ18:9-14

 

律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。ガラテヤ5:4 

 

ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。ガラテヤ3:11

 

こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。ガラテヤ3:24

 

もし、私たちが「自分の正しさ」「自分の義」を主張するなら、その人は「神の義」とは無縁です。その人に「神の義」は必要ありません。
もし、「神の義」が必要であれば、私たちは「自分の義」を捨てなければなりません。
私たちは「自分に義はない」と知り、認めて、「神の義」にすがり、信仰によって救われたのです。再び、「自分の義」を立てようと、「神の義」から離れるような愚かな真似をしてはなりません。


傲慢な者は「自分の義」を選び、謙遜な者は「神の義」を選びます。
「自分の義」という古い誘惑、サタンの策略に惑わされることなく、どこまでも「神の義」に中に、へりくだって安らかに住まい、私たちの主、イエス・キリストの恵みを身をもって証ししましょう。