いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「キリストのかおり」か「人間臭」か


しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。Ⅱコリント2:14-16

聖書によれば、私たちクリスチャンは、「キリストのかおり」です。
神はいつでも、私たちを通して、「キリストを知る知識のかおり」を放ってくださいます。

この世のキリストを信じない人々ばかりでなく、他のクリスチャンに対しても、私たちクリスチャンは、「キリストのかおり」を放っているはずです。

 

あなたは「キリストのかおり」を放っている神のしもべに出会ったことがあるでしょうか。
私は多くの「キリストのかおり」を放っている神のしもべに出会えたことを主様に感謝しています。彼らは言葉よりもはるかに多く、沈黙のうちにキリストを語り出しているのです。

 

しかしコロナ禍以降、私は神の家で、「人間臭」を感じることが多くなりました。
「人間臭」とは、私の勝手な造語で、「キリストのかおり」と正反対のにおいを指すものです。
それは、この世のにおいです。そのにおい「人間臭」を感じるとき、私は平衡感覚を失い、自分がいったいどこにいるのかわからなくなります。
「ここは…神の家なのだろうか…」

 

コロナ禍以降、とみに増えたもの、それはハイテク機器です。zoom配信のためのPC、モニター、スクリーン、プロジェクター、ビデオカメラ。SNSツール。センサーカメラ付き体温計。

 

私は神の家で、これらの「人知を誇るかのような人間の発明品」の数々を見るとき、「もはや神など必要としていないのではないか…」とさえ感じます。あらゆる困難は、人間の知恵で乗り越えられると語っているように感じます。それは背筋が凍るような恐怖です。
しかし、それを口にしたところで、「あの人は批判的な人だ」としか受け止められず、幸いな結果を招かないであろうことは察するに難くないので、今はただ静かに祈るのみです。

 

私が否応なく感じてしまう「人間臭」とは、本質的に何なのだろうかと考えさせられます。
それは、「人間の知恵や力を誇ること」。「神ではなく、人間が現わされること」。
それらを感じてしまうとき、私の心は塞がります。

 

つまるところ、それは「人間の傲慢さ」と言えるでしょう。
私たちは他者の傲慢さには敏感ですが、自分自身の傲慢さには本当に鈍感です。
自分自身のこととなると、「傲慢さ」は「正しさ」という単語に勝手に変換されてしまいます。
「傲慢さ」は悔い改めなければなりませんが、「正しさ」であれば、むしろ貫き通さなければなりません。こうなってくるともはや、救われようのない地獄のような状態になってしまいます。

 

私の「正しさ」「正しいと思うこと」は、果たして「傲慢さ」ではないのか、常に主様の御前にへりくだって吟味しなければならないと教えられます。
私たちが絶えず自分自身の傲慢さに気付くことができますように、人間である私たちが現わされるのではなく、いつも神ご自身と救い主なるイエス・キリストだけが現わされますように。

そして、神がいつも私たちを導いて、かぐわしい「キリストのかおり」を、私たちの周りに放ち続けてくださいますように。

 

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。詩編19:12-14