いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

私はいい人

 

唐突ですが、あなたはいい人ですか。

「あの人は、いい人だ。」などと人は時々、口にします。

しかし、いい人(良い人)とは何か、という定義はほとんど顧みられることはありません。強いて言えば、「親切な人」といったところでしょうか。

もし私が、「あなたはいい人ですか。」と問われたら、一瞬戸惑いながら、「たぶん、いい人だと思いますが…。」と心の中でつぶやくでしょう。

その理由は、クリスチャンになる以前、すなわち聖書とも神様とも無縁に生きていた頃の自分と比較すると、私は随分と良い人になったような気がするからです。

しかし、この漠然とした「私はいい人」感こそが、傲慢の根であることに気付かされました。

 

その思いに至った経緯は、このようなものです。

この地上は、さながら悪魔とイエス様の陣取り合戦であり、傲慢と謙遜の勢力争いであるとするならば、私は謙遜に生きなければなりません。

私は「謙遜になろう」と思いました。
毎日、「謙遜な人」について、徹底して考えてみました。
「謙遜な人なら、どんな風に車を運転するだろう。」「謙遜な人なら、どのように挨拶するだろう。」「謙遜な人なら、どんな風に買い物をするだろう。」「謙遜な人なら、どんな風にお風呂に入るだろう。」と、一日中、様々な状況下で、実に馬鹿馬鹿しいほどに、思案してみました。

この経験は、それなりに有益なものでした。職場では粗相のないように注意深く振る舞っていたつもりでしたが、「私個人」が特定されにくいシチュエーションでは、随分と緊張感のない、救われる以前と何ら変わらないような生活をしていたことに気付かされました。

しかし、ほどなくして「謙遜になろう」とする試みは、素晴らしい心がけのようでありながら、実は「傲慢から出た試みである」ことに気付きました。

もし、私の日々の努力によって「謙遜になった」としたら、「私は謙遜になりました!」と自分を誇ることにならないでしょうか。「私くらいに謙遜な人はいないだろう。」などと、笑い話にもならないような傲慢な人間になるのは必至でしょう。

「謙遜な人になろう」などど、愚かなことを考えてはなりません。
「私」という人間は生きている限り、どこまで行っても傲慢の塊でしかありません。
大切なことは、「私は傲慢であるという自覚」を持つこと、いつも心に留め続けていることなのだと思います。
たぶん、「私は傲慢である」ということを「忘れることが傲慢」なのでしょう。

そうして私は、「謙遜であろう」とするのではなく、自分はとことん傲慢な人間であるという自覚のもとに、「傲慢レベルが限りなくゼロになるように」、心がけることにしました。

それは「自己中心を離れる」ということです。私の都合や、私の希望ではなく、相手の気持ちを優先させるという生き方になります。

実際、主イエス様の生き方とは、そのようなものでした。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。マタイ16:24

嫌な顔を見せずに相手を優先していくと、仕事はますます増えていきました。

オーバーワークで被害者意識の罠に陥らないように、再び鬱にならないように、倒れないようにするためには、「謙遜になって助けを求める」必要が出てきました。
それは、黙々とぶっ倒れるまで仕事を続ける以上に、辛い、屈辱的なことでした。私という人間は実に傲慢です。
私は自分の能力の限界を説明して、協力をお願いし、助けをいただくことを学びました。

しかし、それでもいつも疲れています。年齢的なこと、体力的なこと、いろいろあるのでしょうが、途方もなく疲れ果てています。実際、活動は最小限に留めているのですが。

私は一人でいたいと思います。一人でいるときは、「相手の都合を優先する」必要がないからです。
たぶん、「いい人」を演じることに疲れてしまうのでしょう。

そこで、冒頭の質問です。
「あなたは、いい人ですか。」

「これだけいい人を演じて、頑張っているのだから、私はいい人で、周りも私のことをいい人だと思っているだろう」、などと思うことこそが傲慢の根となるのです。

誰かが自分のことを評して、「いい人」と言っていたら、どう思うでしょうか。
もしそれを当然のことのように感じるとしたら、それは傲慢ではないでしょうか。

私たちは、悪意なく、無意識のうちに「私はいい人」と思い込んではいないでしょうか。
無自覚に「私はいい人」と思い込んでいる人は、「傲慢にも親切を押し付けてくる」といった過ちを犯しやすくなります。

「私はとことん傲慢な人間である」という自覚、「私は決していい人ではない」という自戒、この二つは、生涯、決して忘れてはならないと思います。

 良い方は、ひとりだけです。マタイ19:17


結局、傲慢とは、「私(わたくし)」に注目すること、「自己」に執着することから始まるのではないでしょうか。
「自分を捨て」とは、自己を見ずに、神を見る、主イエス・キリストを見るということなのでしょう。唯一の「良い方」を見続ける。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。へブル12:2 

誤解を恐れずに言えば、もはや「相手」に注目する必要もありません。
「相手」の利益を最も良く知っておられるのは、愚かな私ではなく、主イエス様です。
相手にとって、私が良いと思うことは、相手の迷惑かも知れませんし、結果的に相手の益にならないかも知れません。
いつも主イエス様を見上げていれば、いつ、何をなすべきかは、主イエス様が教え、導いていってくださるでしょう。

「私(わたくし)」は決して、いい人ではありません。
「私(わたくし)」が傲慢なのです。
傲慢の本質である「私(わたくし)」から目を離しましょう。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。へブル12:2