いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

沈黙の奥義

 

 聖徒たちのすべての教会で行なわれているように、教会では、妻(女)たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。 Ⅰコリント14:33-34

 「女性には、〇〇は許されていない」という社会通念に縛られて、自分の可能性を自ら摘み取ってきた私は、20歳の時、「女の子は作られる」(佐藤洋子著)という本を読み、以降の人生を、この女性差別的な社会通念を叩き壊すために投じてきました。

 そんな私にとって、求道中(まだ神を知らず、捜し求めていた期間)に読んだこの聖書のみことばは、大きなつまずきでした。

 しかし、当時の私は、「神が存在するなら、知識として得ておこう」と考えていただけで、信者に加わるつもりなど毛頭なかったので、「これはパウロという偏った弟子の意見であり、神がこのような女性差別を認めるはずがない」と、このみことばを無視し、ただ「神という学科の単位を取得するために」、福音集会という名の「授業」に通い続けることにしました。

 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 ヨハネ14:26

 父なる神様が、こんなかたくなな私の心をも開いて、聖霊を与えてくださったとき、この混乱は瞬時に氷解しました。

 「神が天地万物の創造主である」ということの意味を本当に悟ったとき、一被造物に過ぎない私には、神のなされることに、つべこべ口を差し挟む余地などみじんもないことがはっきりとわかったのです。

 たとえ、一被造物である私が、「絶対に黒だ!」と思っても、万物の創造主である神が、「白」と宣言されれば、それは紛れもなく「白」なのです。

 一被造物に過ぎない私がどう思おうが、どう感じようが、そんなことで万物の創造主であり、唯一の主権者であられる神の事実には何の影響も及ぼすことはありません。

 この神のことばである聖書のみことばは、被造物である人間にとって「議論の対象」ではなく、そのまま事実として確認し、受け入れるべきものです。

 聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 Ⅱテモテ3:15-16

 聖霊を与えられた私は、神のみことばにしたがって、バプテスマ(洗礼)を受け、集りに加えられました。

 私たちの集まりでは、冒頭のみことばにしたがい、公の場で女性が語ることはありません。

 しかし、私は長らく、「女性だから語れない」ことが悔しくてなりませんでした。

 神様のお決めになったことだから、仕方がない…。ああ、兄弟(男性クリスチャン)が羨ましい。公の場で語ることが許されるという素晴らしい特権を与えられているのに、なぜ語ろうとしない兄弟がいるのだろう…。 

 けれど、この神のみことばは、いくら私が駄々をこねて願ったところで、変更されることはありません。

 そして、悔しがることにも疲れ果てた私は、「まぁ、考えようによっては、公に語る責任がないのは、お気楽でいいかもね…」と、次第にグレた信仰に傾いて行きました。

 しかし、ある時ふと気付きました。神様は、女性への嫌がらせとして、「黙っていなさい」と命じられたのではない、と。

 神様の命令には、必ず有益な意味があることを思い出し、祈りました。

 主よ、あなたがお命じになった沈黙の奥義を教えてください。

 ある姉妹(女性クリスチャン)が、こんな話をしてくださいました。

 「家庭を見ていると、女の人って、口では男の人に絶対に勝つよね。だから、男の人は暴力を振るうんじゃない?」

 これは確かに鋭い指摘だと、思わずうなってしまいました。

 夫婦喧嘩の内容が、論理的に整合性が取れているかどうかは別として、概ね女性は口が達者で、矢継ぎ早に言葉を浴びせる特技を持っているように感じます。

 この機関銃のような「口撃」に対して、熟考型の男性がやおら口を開いたとしても、「でも」、「けど」が止むことはなく、自分の主張が聞き入れられなければ、「ずっと以前も」と争点の拡大が図られ、ますます事態は悪化していきます。

 こうなると男性は、沈黙という盾で身を守るか、暴力という剣で逆襲に出るかの行動を選択するのではないでしょうか。

 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 創世記2:16-17

 神は、初めの人アダムを造られ、彼にひとつの命令をお与えになりました。彼が食べることを許されなかった木は、たった一本だけでした。それを除く、すべての木の実を食べることが許されていました。

 その後、彼にふさわしい「助け手」として、妻エバが与えられました。彼は妻に、神の命令を伝えていたようです。

 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 創世記3:1-6

 昔も今も、悪魔は、人をそそのかし、神に反逆させることを目標として働いています。

 「狡猾な蛇」である悪魔は、男ではなく、女を攻撃のターゲットとしました。

 蛇は、女が、スーパーで見知らぬおばちゃんと気軽に話しができるほど親和性が高く、おしゃべりなことを熟知していました。

 しかも、女は、神の命令を、間接的にしか聞いていませんでした。

 「あなたがたは…」という蛇の問いに、女は、すぐ隣にいて、神から直接その命令を聞いた夫に尋ねるべきでした。夫が沈黙していたのなら、語り出すまで待っていることもできました。

 よしそこに夫がいなくとも、神である主に尋ねることもできたでしょう。

 しかし、女は、そうした思慮深さを欠いていました。

 そして、神である主の立てられた秩序に無頓着かつ軽率に、「私たちは…」と、夫婦を代表して答えて、知識のなさを露呈し、まんまと悪魔のセールストークに誘導されてしまいました。

 こうして、神の秩序に無頓着な女は、最後まで、夫に尋ねず、神である主に問うこともないまま、「自分の目で」判断して、我先に食べ、夫にも与えてしまいました。

 男は、神の秩序、神の命令が踏みにじられようとしている時に、沈黙しているべきではありませんでした。

 しかし結局、男は、「神が与えられたもの」ではなく、「妻が与えたもの」を食べてしまい、神との信頼関係を決定的に損なってしまいました。

 このとき、人類は悪魔に敗北したのです。

 これは今日の私たちにとっても、非常に示唆深い教訓です。

 

 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。

 たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。 Ⅰペテロ3:1-2

 これは、「人間の知恵」によるものではありません。

 聖書のみことばに従っていないような困った夫に、なぜ服従しなければならないのでしょうか。

 しかも、「みことばと異なっていますよと、一言意見してから従いなさい」でもなく、無条件の服従命令です。

 しかし、「神の知恵」は語ります。

 「妻の無言のふるまい」こそが、夫が神のものとされる道であると。

 夕食の間のことであった。

 悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。

 ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」 ヨハネ13:2-6

 いわゆる「最後の晩餐」の席で、弟子たちは、こともあろうに「自分たちの中で、誰が一番偉いか」と議論していました。

 乾燥した中東の地では、外を歩くと、足は土埃にまみれます。神から「きよめの大切さ」を徹底的に教えられてきたユダヤ人たちは、手や足を洗わずに食事をするなど考えられないことでした。

 しかし、人の足を洗うことは、当時、「奴隷の仕事」でした。この席に、奴隷はいませんでした。かえって、私の方が偉いと考えているような誇り高い弟子たちばかりでした。

 そのとき主は、無言で弟子たちの足を洗い始められました。

 説教しながらでもなく、嘆きながらでもなく、沈黙のまま、弟子たち一人ひとりの足元にひざまずき、慈しみをもって足を洗い、拭ききよめてくださいました。

 ペテロの質問に、主は優しく答えられました。

 「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。

 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。 ヨハネ13:15-17

 主イエス様は言われました。

 わたしは模範を示しました。これらを行なうとき、あなたがたは祝福されます。

 父なる神様。私には、沈黙の奥義は、今はまだわかりません。

 けれども、主の無言のふるまいの模範こそが、祝福の道なのです。

 沈黙とは、何もしないことではありませんでした。

 どうかあなたが、私の心の曇りをきよめて、「消極さの表れとしての沈黙」ではなく、むしろ「積極的な主のしもべの働きとしての沈黙」を実践する者としてください。そして、あなたのご栄光を見る幸いにあずかることができますように。