少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。 ルカ7:47
他者を愛することに、私がしばしば困難を感じてしまうのは、「少ししか赦されていない者だから」と、主は教えてくださいました。
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 ルカ23:33-34
主イエス様は、私の罪のために十字架にかかられ、私が父なる神様に赦していただけるように、いのちをかけて、とりなしてくださいました。
主イエス様は、罪人である私を、意思能力(有効に意思表示をする能力のことをいい、具体的には自己の行為の結果を弁識するに足りる精神的な能力のこと)を欠く者ゆえ、責任を負わせないでくださいと、父なる神様に弁護してくださったのです。
実際、私は、「何をしているのか自分でわからない」ほどの愚か者で、「確かに私には罪があり、赦していただき感謝しているけれど、私の罪は、他者と比べれば、それほど重大なものではないのではないか…」と内心でたかをくくっていたことに気付かされました。
それゆえ、私は「少ししか赦されていない者」となり、「少ししか愛することのできない者」となってしまうのでした。
「人を愛そう」とするとき、「あの人は、〇〇なところがあるから愛せない…」と、私の気持ちはすぐに萎えてしまいます。
確かに、あの人には、〇〇なところがあるかも知れません。
けれど、私には、××なところがあるわけで、それは到底、一朝一夕に改善できるものではありませんでした。
なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。
見なさい、自分の目には梁(はり)があるではありませんか。 マタイ7:3-4
ことほどさように私は、人の欠点には目ざとく、自分の欠点には、まるで無自覚です。
人に貸したものは、たとえ1円でも、しつこく覚えているのに、人から借りたものは、すぐに忘れてしまいます。
実際のところ私は、「人を赦す」ような立場の者ではなく、「ただただ赦していただく他ない者」に過ぎませんでした。
いったい私は、どれほど神から忍耐を持って赦し続けていただき、また、どれだけ多くの人から、寛容をもって赦していただいていることでしょう。
自分がどれだけ赦されなければならない者であるか、どれほど神に赦された者であるかを忘れたとき、私たちは愛を失ってしまうことを教えられました。
本当に、「愛するということ」は、「赦すこと」なのだと悟りました。
「愛しているなら赦せるだろう」と聞くことがありますが、順番が違うのです。
私たちは、神に赦されているから、人を赦すことができるのです。
その人を赦しているから、愛することができるのです。
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。
主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。
愛は結びの帯として完全なものです。 コロサイ3:12-14
さて、私たちは、自分自身を赦しているでしょうか。
また、神を「赦している」でしょうか。
私たちは、私たちの造り主である神に敵意を抱き、神の与えられている環境や境遇に恨みを抱いてはいないでしょうか。
このように、うわべのことだけを見て、神の愛を疑い、神を呪うような私たちをも、神は赦してくださいました。
赦す者は、赦されます。
赦す者の心には、神の愛が豊かに注がれ、満ち溢れるようになります。
どうか、この生きておられる神様からの「和解」の申し出を、すべての方が信じ、受け入れて、永遠のいのちをいただくことができますように。
神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。Ⅱコリント5:19-21