いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

平和とは謙遜の実である

今さらと言えば、あまりにも今さらですが、この世界には、謙遜と傲慢しかないのではないかと気付きました。

それは傲慢から出たものでしょうか?

それとも謙遜から出たものでしょうか?

 

「『パンセ』で極める人間学鹿島茂著によれば、人間は「とにかく自分のことが好き!」であり、「すべては『ドーダ』で理解できる」とのこと。
「ドーダ」とは、「どーだ。俺は(私は)すごいだろう!」という誇りです。
罪人である人類の性質を、これほど見事に喝破した人がいたでしょうか。
「ドーダ」という傲慢は、人のあらゆる言動の原動力なのでしょう。
それが悪行であれ、善行であれ、「ドーダ」は必ずどこかに潜んでいます。
他者の「ドーダ」に敏感な人は、それに激しく反発しますが、その抗議もまた「ドーダ」であって…。
そもそも生まれながらの人間からは、傲慢以外のものは出て来ないのでしょう。

 

キリストは地上に謙遜を回復するために来られ、まったき模範を示してくださいました。キリストには「私(わたくし)」がありませんでした。

子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。ヨハネ5:19

わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。ヨハネ5:30

わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。ヨハネ12:49

 

謙遜と傲慢は、キリストと悪魔、御使いと悪魔に、相当します。御使いにも「自力」は感じられません。

御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。ユダ1:9

 

謙遜と傲慢は、御霊と肉に、対応します。

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ヨハネ1:13

肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。ヨハネ3:6

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。ローマ7:18

あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。ガラテヤ3:3 

肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。ガラテヤ5:17 

 

謙遜とは、つまるところ、御霊の働きによります。

しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。ガラテヤ5:18
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。ガラテヤ5:22-25

 

御霊の実の列挙には「謙遜」の文字はありませんが、意味合いとしては含まれているでしょう。謙遜は肉からは出ず、ただ御霊からあらわされます。

この世の大小さまざまな争いごとは、すべて肉の傲慢さ、「ドーダ」から出ます。

 

「平和」が欲しいと切に願います。「平和」とは、傲慢のないところ、すなわち互いに謙遜であるところにのみ、存在するのだと思います。

あなたの住む神の家に、「平和」はあるでしょうか。
私たちクリスチャンは、キリストの謙遜によって救われました。キリストの謙遜に感動して、新しいいのちが始まりました。御霊で始まったのです。
キリストの謙遜にとどまることは、肉にある私たちにとって容易なことではありません。
しかし、キリストの謙遜にとどまることができなければ、私たちが世にある意味はほとんどなくなってしまうのではないでしょうか。この世との違いはいったいどこにあるのでしょうか。
もしこの世との違いが「聖書の知識」だけだとしたら、それは恐ろしい「ドーダ」、傲慢ではないでしょうか。
謙遜を身に着けたいと、切に願います。
私たちに日々降りかかってくる多くの問題は、すべて謙遜を身に着けるための訓練なのではないでしょうか。

最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。Ⅰペテロ3:8
みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。Ⅰペテロ5:5

 

謙遜から生まれる平和、謙遜から生まれる愛、それが私たちのうちで実現されますように。

 

もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。ヨハネ13:35