私は自分の信仰生活を振り返り、大いなる自戒を込めて、「小賢しい信仰」と命名しました。
様々な経験を重ね、聖書知識を増し加え、日々の諸問題に対処する秘訣のようなものを、自分なりに獲得しました。
色々な兄弟姉妹や、その働きを見ては、「あれは聖書的にどうなんだろう…」とか、「それをしていると、つまづく人が出ないだろうか…」などと、憂いてきました。
私の培われてきた感性は、容易に変えられるものではありません。
しかし、これは、いったい信仰と呼べるようなものだったのでしょうか。
ただの「私の聖書知識と私の経験に基づいた」「私の聖書判断」に過ぎなかったのではないでしょうか。
例えば、「集会所の椅子用に新しいクッションを買いましょう」と誰かが提案したとします。
特別な事情でもない限り、特に反対する理由はありません。
「常識的に考えて」、「良いこと」であり、「悪いことではありません」。
「良いのではないでしょうか。」と、私は安直に答えてきました。
ああ、これらはいったい、信仰の判断だったのでしょうか。
私は、こうした「些細なこと」について、主様に祈ることもなく、「聖書的に判断して、問題ない」と瞬時に結論を出してきたのです。
私はこれを「小賢しい信仰」と言わざるを得ません。
さらに言えば、これはもはや「信仰」ですらありません。
そこに神様は存在していないのです。まさに「私が主」なのです。
聖書知識を増し加えることは、必ずしも、信仰の成長に結びつくわけではなく、ましてやキリストに似た者に近づくわけでもないことを、改めて思い知らされました。
これはまさにパリサイ人の信仰ではないでしょうか。
そう、「小賢しい信仰」とは、まさに「パリサイ人の信仰」と言えるでしょう。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。マタイ5:20
私はどんなに些細に見えることでも、主様に真のみこころを祈り求めることを、改めて学んでいかなければなりません。
自分の判断ありきで許可を得るような祈りではなく、ただ事実だけをお伝えし、白紙の状態で、主様のみこころをお尋ねしていきたいと思っています。
目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。マタイ23:26