いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

愛とは謙遜の実である

 

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。ヨハネ13:34

 

クリスチャンであるあなたは、このみことばを聴いて、どんな気持ちを抱かれるでしょうか。
恥ずかしながら私は、このみことばはなるべく見たくない、できれば向き合いたくないと、いつも思ってしまいます。
確かにこれは、最高の律法です。「○○をしてはならない」という戒めを守る方がどれほどたやすいことでしょう。

 

さて、改めて、愛の定義とは何でしょうか。
そもそも私は、本質的に愛とは何か、という点から理解できていないのではないかと気付かされました。
誰もがなんとなく知っており、誰もが切に求めているのに、その供給が圧倒的に不足している、それが愛。

 

あなたは愛を感じたことがあるでしょうか。
自分の人生をつらつら思い返すと、愛とは自己犠牲なのかなと感じます。
しかし愛とは、ただの自己犠牲では足りないのです。

 

たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。Ⅰコリント13:3

 

愛とは本質的に「行い」「行為」そのものではないのでしょう。
相手を「尊いもの」として尊ぶ心、敬う心、慈しむ心、感謝する心こそ、愛の神髄なのではないでしょうか。
ベッドの上で、身動きの取れない方でも、相手を喜び、感謝し、敬い、慈しむことは可能でしょう。その人は、最高の愛を表すことができるかもしれません。

 

私は、「愛しなさい」と言われると、「何をしなければならないのだろう」という思考回路に陥り、息苦しくなります。
しかし、愛の本質は、行いではありません。この世には、人の目には愛に見える多くの行いがあります。しかしそれが、「内心しぶしぶ」であったり、「上から目線の施し」であったりしたら、愛とは異なる偽善でしょう。

「愛する」以前に、相手を敬う心、相手に感謝する心から、養われなければならないのではないかと感じます。

 

兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。ローマ12:10

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。ビリピ2:3

 

相手を自分よりまさっている、すぐれているとリスペクトするために必要なのが、謙遜です。謙遜とは、人間の最高の美徳ではないでしょうか。
悪魔の本質は傲慢です。「人間の最後まで残る罪は傲慢である」「キリスト・イエスは謙遜を地上に返すためにこの世に来られた」と、聞いたことがあります。

私は「愛を目指す」のではなく、「謙遜を目指」さなければなりません。
愛とは、謙遜から生じる実ではないでしょうか。真に謙遜な人は、何をしていてもそこに愛がにじみ出るのではなかと思います。

 

私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。使途20:19

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。エペソ4:2-3

 

パウロは「謙遜の限りを尽くし」ました。すさまじい言葉ではないでしょうか。
そして、私たちにも同じく「謙遜と柔和の限りを尽くす」ことを勧めています。

謙遜こそ、私たちを救う鍵なのでしょう。

 

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。ビリピ2:6-8

 

謙遜と同義の謙虚という言葉があります。
「謙」の意は、へりくだる。「遜」も、へりくだる。
「虚」は、むなしい。中身がない。から。うつろ。
こうして見ると、「謙虚」という言葉の方が、しっくりくるような気がします。

 

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。ヨハネ3:30

 

古い私が努力して、「謙遜になろうとする」のではなく、古い私はすでに死んで、からになったことに同意して、謙遜そのものであるお方に盛んになっていただくのです。

謙遜なお方が、愚かで弱い私のうちに豊かにお住まいになってくださり、謙遜の実である愛が結ばれますように。謙虚の道を学んでいくことができますように。