いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

生活の中での福音の証し

リモート礼拝、Zoom伝道。

クリスチャンの信仰が、どんどんバーチャルなものになっていくことに私は戦慄を覚えます。

 

新型コロナが登場する半年ほど前、私は一つの夢を見ました。

近隣で行われている伝道集会に集うために集会所に入ると、そこにはわずかな兄弟姉妹が座っているだけでした。

(どうして今日はこんなに人が少ないのだろう…。)

ふと前を見ると、大きなスクリーンの中から福音メッセージが語られていました。

(えっ?もう始まっているの…?)

そのメッセージはビデオ上映でした。

気が付くと、台所周辺では多くの兄弟姉妹が慌ただしく食事の準備をしていました。

彼らはこう語っていました。

「福音伝道はビデオでもできるが、食事の支度は人海戦術でないとできないから。」と。

 

恐るべき人間的な発想に背筋が凍り付くほどでしたが、あまりにもリアリティーがあり、目覚めてからもいつまでも気持ちの悪いものでした。

 

しかし、それが今、現実のものとなりつつあります。

 

クリスチャンとは、何でしょう。

クリスチャンが地上に置かれている意味は何でしょう。

福音は言葉で伝えれば良いのでしょうか。

 

なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。Ⅰテサロニケ1:5-7

 

私たちは、生き方とともにキリストを証しすべきではないでしょうか。

遠く離れたところから、言葉によって福音を語ることは、ある意味、たやすいことです。

リアルに会うことのない人を愛することは、容易なことではないでしょうか。

バーチャルな世界でなら、私たちは「いい人」でいることができるでしょう。


私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。ヤコブ2:14-17

 

私は今、自宅から「歩いて集える小さな神の家」が興されることを祈り求めています。

私たちの持っている福音は、バーチャルなものではなく、哲学や考え方でもありません。

私たちの福音は、人の生き方を根本的に創り変える力あるものです。死んでいたいのちを、よみがえらせる神の力です。

私たちはこの福音の力を、生活の中で、生き方の中で、具体的に世に示していくべきではないでしょうか。

 

遠くの神の家に集い、生活とかけ離れたところで、福音を語ることは主様のみこころでしょうか。

私は、生活の場で、地味に、泥臭く、十字架を負う兄弟姉妹とともに、小さな燭台を灯して、栄光の福音を証したいのです。

 

私の憧れとするのは、宮沢賢治の「雨にも負けず」に描かれた人物です。

 

「雨にも負けず」 宮沢賢治


雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだを持ち
欲は無く
決して瞋(いか)らず
何時も静かに笑っている


一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆる事を自分を勘定に入れずに
良く見聞きし判り
そして忘れず


野原の松の林の影の
小さな萱葺きの小屋に居て
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い


日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
誉められもせず苦にもされず
そういう者に
私はなりたい

 

私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。コリント6:3-10

 

私たちは決して大きな働きや、人目を引くような働きを求められているわけではないでしょう。

コロナ禍は私たちを遠くに導いているわけではありません。

むしろすべての兄弟姉妹が、主様の恵みの采配によって置かれている足元で、生き方とともにキリストを証しすることを求めておられるのではないでしょうか。

願わくば、すべての兄弟姉妹に、その置かれた地域に、ともに御名をほめたたえる兄弟姉妹の助けが起こされますように。