いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

天と地は「水」でつながっている


初めに、神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。
やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。 創世記1:1-2

 

この光景を想像できるでしょうか。

恐らく、人の目には何も見えないでしょう。光がないのですから。

しかし、そこには確かに、大いなる「水」がありました。

人が手を差し伸べたなら、「水」に触れることができたでしょう。

 

かつて私は、なぜ「水」は創世の初めから存在していたのか、とても不思議でした。

「水」を造られたときの経緯が語られていないからです。

その答えが、最近、ひょんなことから見えた気がしています。

ともに吟味していただけたら幸いです。

 

それは、NHK朝の連続ドラマ「おかえりモネ」の主人公の祖父・龍己さんの一節でした。

「その山の葉っぱさんたちが海の栄養になんのさ。山は海とつながってるんだ。なんも関係ねえように見えるもんが、何がの役に立つっていうことは世の中にいっぺえあるんだよ」

 

「山と海は水でつながっている…」

山に降り注がれた水は、山を潤します。

その水はやがて川となり、田畑を潤しながら下って、海にたどり着きます。

海の水は、太陽熱で温められて、水蒸気となって天に還っていきます。

その水蒸気が、再び、雨となって山に降る。

 

「天と地は、水でつながっている。」

天と地を結んでいる「水」とは、「イエス・キリスト」の型なのだと気付きました。

 

そこで、こう言われています。
「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」

―この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです― エペソ4:8-10

 

それで、創世の初めから、「大水」が存在していたのだと。

「水」は「わたしは…ある」、「あってあるお方」なのです。

「水」は被造物ではないのです。

 

さて、創世記の1章3節から、神様の創造の御業が始まります。

 

神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日

神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日

神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた
神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
夕があり、朝があった。第三日


神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた夕があり、朝があった。第四日

神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた
神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」夕があり、朝があった。第五日

神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。
神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 創世記1:3-2:2

 

神様は六日間で、天と地とそのすべての万象を完成されました。

それらは本当に良いものでした。

それで、神様は毎日、造られたものをご覧になり、「良しとされた」のですが、なぜか、第二日には「良しとされた」というキーワードがないのです。

なぜでしょうか。

第二日には、何があったでしょうか。

「神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。」のです。

つまり、「水」である「イエス様」が天と地に「裂かれた」ことを意味しているのではないでしょうか。

もちろんそれは、罪人となる私たちを救い出すためにでしょう。

しかし、イエス様が裂かれることは、父なる神様のみこころを痛めました。

それを「良しとする」ことはできなかったのではないでしょうか。

 

また私は、新しい天と新しい地とを見た。
以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 黙示録21:1

 

しかし、やがて神様の正しいさばきが行われ、新しい天と新しい地が造られます。

そのとき、「もはや海もない」のです。

つまり、「水」は一つに回復されているのではないでしょうか。

 

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。黙示録22:1-2

 

新天新地には、「水晶のように光るいのちの水の川」が流れています。

想像するだけで、希望に満ちた心躍る光景です。

この「いのちの水の川」が、一つに回復された「水」であるとするなら、もはや海がないように、雨もないのかも知れません。

 

私たちのからだの大半は「水」でできています。

「水」は私たちが生きていくのに欠かせないものです。

「水」はすべての生き物にいのちを与えてくれます。

私たちは「水」をいただいて、日々、感謝しているでしょうか。

「水」について思い巡らすとき、私たちはさらに多くのことを教えられるのではないでしょうか。