初めの人アダムは、神である主が「 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:17)」と命じられた木の実を食べました。
その後、神である主が、「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。(創世記3:11)」と尋ねた時、アダムはこう答えました。
「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」創世記3:12
なんという卑怯な男でしょうか。
確かに彼は、「目が開け」「神のようになり」「善悪を知るように(創世記3:5)」なりました。
善悪を知った彼が最初にしたことは、「いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作(創世記3:7)」るという「隠ぺい工作」でした。
そして、神である主の問いに対して、「はい、食べました。」と答えるべきところを、「自分の義」を立てようとして「責任転嫁」を冒頭に置き、あたかも「自分は善意の被害者である」風な見事な弁明をしました。
悪いのは、「自分をそそのかした女」であり、「そんな女をそばに置いた神様」だと。
アダム以来、私たちはいつもこんな風に、自分を「被害者」の立場に置いて、誰かを「加害者」に仕立て上げてはいないでしょうか。
私は今、「自分を被害者にする」ことが罪の始まりであり、罪を助長し、罪を拡散する重要なポイントではないかと考えています。
「被害者」は、傷ついたかわいそうな人として、他者から同情を受けられます。慰めを受けられます。他者から助けてもらえます。他者を味方に付けることができます。
「被害者」は、悪くないので、責められません。反省する必要がありません。自分を改善する必要がありません。
「被害者」は、あらゆることを正当化できるようになります。
つまるところ、自分を「被害者」の立場に置くことに成功すれば、労せずして、多くの利益を手にすることが可能なのです。
さらに問題なのは、「被害者」は「常に加害者を造り出してしまう」ことです。
自分が「安楽な被害者の椅子」に座り続けるためには、「加害者」がいなければなりません。
アダムは、エバをターゲットにしました。あろうことか、神様をも「加害者」に仕立て上げたのです。
私たちは、日々の生活の中で、「なぜ私ばかりが…」とか「あの人のせいで…」などと、つい自己憐憫に思うことはないでしょうか。
聖書を読むならば、これは非常に危険な思想であることに注意を払わなければなりません。
これは、実に巧妙な悪魔の策略なのです。
しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。Ⅱコリント11:14
悪魔は、「見るからに悪そうな者」ではありません。
悪魔は、「光の御使いのように麗しく、優しく、親切な者」を装って近づいてくるのです。
いったい誰が悪魔を見分けることができるでしょう。誰もが騙されても何の不思議もありません。
逆に考えてみましょう。
「光の御使いのように麗しく、優しく、親切な者」の助けを待ち望んでいる「被害者意識を持つ人」のところに、まさにそのような人物が現れたら…。
結果は火を見るよりも明らかでしょう。
その「光の御使いのような者」は、初めに「被害者」に、温かい慰めの言葉をかけるでしょう。
「あなたは悪くない。」「悪いのはあいつだ。」「あなたは間違っていない。」「あなたは正しい。」「私もあなたの言う通りだと思う。」「私はあなたの味方だ。」
こうして、被害者意識はさらに強化され、増長していくのです。
「被害者である私」はますます正しい者になり、「加害者」はいよいよ悪い者となっていくのです。
悪魔はこうして、両者の対立構造を激化し、自らは何ら手を汚すこともなく、両者が互いに滅ぼし合うように仕向けていくのです。
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。ヨハネ13:34
被害者意識は、地獄の門です。
悪魔はいつも私たちを「被害者」の地位に引きずり込んで、私たちを滅ぼそうと画策しているのです。
私たちは、断固として被害者意識と決別しなければなりません。
主イエス様は私たちを愛されました。
私たちには、そうは見えなくとも、すべてのことは、良いものなのです。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28
私たちは、アダムの失敗から学びましょう。
「被害者」になったり、「加害者」を仕立て上げたりしないことを心に決めましょう。
すべてのことは、私たちの益のための神様の采配です。
どれだけ多くの益をいただくことができるかは、ただ私たちの信仰にかかっているのです。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。Ⅰペテロ4:8