知ろうとしない罪
罪とは何か?
これは意外と深い問いだと、信仰年数を増すごとに思うようになりました。
聖書を読むだけでなく、人生経験を通してみると、色んな答えにたどり着き、どれも然り、アーメン。
そんな多くの答えの中から、今回は、「罪とは知ろうとしないこと」と定義してみました。
「知ろうとしない」とは、「知らない」とは異なります。
知ることが可能であるにも関わらず、敢えて「知りたくない」という意志を持ち、「知らないままでいる」ことを選択することです。
そして、都合が悪くなると「知らなかったんだから仕方がないだろう」と言い訳する余地を残す、ある意味で、巧妙で姑息な方法と言えます。
神様の死後のさばきの基準は、「あなたはイエス・キリストがあなたのために死なれ、葬られ、蘇られたことをを信じましたが?」という一言に尽きると思います。
信じなかった人々は、「そんなこと知らなかった」と言いたくなるのではないかと思います。
「私は良いことをたくさんしてきた。それなのに罪人と認定されるなんて知らなかった」と。
しかし、神様は言われます。
神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。ローマ1:19-20
つまり、神様はご自身を絶えず知らせておられるのに、「知ろうとしなかったこと」が罪としてさばきの対象になるということではないでしょうか。
人はなぜ「知ろうとしない」のでしょうか。
人は自分の興味あること、都合の良いことは知ろうとします。
しかし、都合の悪い情報は知りたくないものです。偶然、知ってしまえば、反対説を探し出して、都合の悪い情報を打ち消してもらい、安心しがちではないでしょうか。
私たちは無意識のうちに自分を神として、自己中心に情報をコントロールしています。
私は私の知っている情報だけで生きています。それは実に狭小な世界です。
その浅く狭い情報、知識で、世界と人を見て、良し悪しを判断したりしています。
冷静に考えてみると、何と自分勝手で愚かな姿でしょうか。
彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。ローマ1:28
知ろうとしない罪は、まず神を知ろうとしないことから始まっています。
神である主が、「してはならない」と教えてくださる罪とは、「悪いことだから止めろ」という主旨ではなく、「それをすると不幸になるから止めよ」という主旨なのだと思います。
基準違反だからアウトだ、セーフだと取り締まりをしたいのではありません。
ただ私たちに真に幸せになって欲しいのだと思います。
だから、不幸な道を選択するなと切に伝えたいのだと思います。
神を知ろうとせず、知らないままでいると、人の思考は自己中心に偏ったままで、決して幸せにはなりません。
自己中心の思考で世界を見ると、すべては間違っており、ストレスフルで、悲劇の主人公になるばかりです。
神を知ろうとして、聖書に近づき、みことばを読み続けることは幸いです。
私たちはどうしても、無自覚に、自己中心な視点のままで聖書を読みがちです。
真に知るためには、神様の視点から、聖書を読むことが必要です。
これは実際には困難なことですが、神様に祈り求め、神様の御思いを思い巡らしながら、みことばをじっくり味わうことができたら幸いと思います。
神様の視点から思い巡らすことができるようになった時、恐らく、他者に対しても、他者の視点から思い巡らすことができるようになるのではないでしょうか。
人間関係のトラブルは、「わかって欲しい」のせめぎ合いだと、語った人がいました。
相手の視点から、相手の思考や思い、気持ちを推し量ることができるようになれば、人間関係のトラブルは随分と軽減されるのではないでしょうか。
「知ろうとすること」、それはただ心の態度です。
永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。ヨハネ17:3
神とキリストを知ること。それが永遠のいのちです。
神とキリストをさらに知ることを通して、ますますいきいきとした力強く、喜びに満ちた永遠のいのちに歩んでいきましょう。
私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。ホセア6:3