いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

動機は愛か、責任感か

  

 主に従って歩めば歩むほど、ますます「愛」が、わからなくなっいてくような気の遠くなる感覚を覚えます。

 正確に言えば、「愛」について、わかったつもりになっていた薄っぺらな自分が、徐々に露わにされてきているということなのでしょう。

 唯一、わかり始めたことは、私には一生かかっても、「愛」は悟り得ないだろうということです。

 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 ローマ5:8

 本当の愛とは、無償の愛、見返りを求めない愛であり、自己犠牲の愛であるということなら、クリスチャンでなくても知っているでしょう。

 私たちクリスチャンは、この神の愛を知り、この神の愛をいただいて、「主イエス様によって具体的に表わされた神の愛」にならう者になりたいと願います。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。

あなたがたは互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 ヨハネ13:34

 

 かつて私が、この主イエス様の新しい戒めを、さほど重視していなかった頃は、私の中にさしたる矛盾も悩みも生じませんでした。

 ところが、互いに愛し合おうと志した瞬間から、どんなに自分が他者を愛せない者であるかという絶望的な現実に直面させられるようになりました。

 しかし、主は、私たちにできないことを要求されることはありません。

 私たちを造られ、また、人の姿をとって、地上の苦しみを自ら味わってくださった主は、私たちの弱さをすべてご存知です。

 その全知の主が、弟子たちに、互いに愛し合いなさいと勧めておられるのですから、私たちクリスチャンには既にその力を与えられているはずです。

 不可能に感じられるのであれば、私の考え方、捉え方が、どこかで間違っているのです。

 私はこの迷路から抜け出したいと、主の御前に祈っています。

 その中で、私は「愛」を、根本的に勘違いしていたことに気付かされました。

 私にとって、愛とは、責任であり、重荷であり、義務でした。それは、果たさなければならない仕事でした。

 私は子どもの頃に、ありのままの自分で愛された記憶が乏しいので、愛されるためには努力しなければならないことを自然に学びました。

 私にとって「愛すること」は、「相手のために損失を払って努力すること」でした。

 私にとって「愛されること」は、「努力の報酬を得ること」でした。

 愛されるためには、犠牲を払わなければなりません。

 犠牲を払う努力が足りなければ、愛されなくなってしまいます。

 何という重荷でしょうか。

 払う犠牲ばかりが大きく感じられ、正当な報酬を得られなければ「損をしてしまう」という極めて自己中心的で狭量な了見から、私は無意識のうちに、この重荷から免れる方法を採用していました。

 それは、人との関わりをなるべく持たないこと。初めから、「愛など要りません」と宣言して、自ら愛を拒むことです。

 愛を得ることはできなくなりますが、少なくとも損失は防ぐことができます。

 私にとっての関心事は、「私がどれだけ収益を得たか」でした。

 私は人生の価値を、「成功すること」に置き、成功したかどうかの判断基準を、「私の獲得した利益」としてきたことに気付きました。

 もし私が損失しているとすれば、私の人生は「失敗」ということになります。

 

 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 マタイ16:24

 聖書のみことばから、「自分を捨てる」ことを学び、多くのものを捨ててきたつもりでした。

 私の頭の中にある収支決算報告書には、捨てたものリストは、かなり明確に記録されています。

 しかし、主からいただいた恵みは、目に見えないものが多いことも手伝い、かなりあいまいな状態です。

 井上陽水の往年の名曲「感謝知らずの女」を思い出しました。

 感謝の足りない私の心は、容易に「損失」と「失敗」に囚われてしまいます。

 ペテロはイエスに答えて言った。

 「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」 マタイ19:27

 結局、私は何かを「得る」という下心をもって、先行投資していたに過ぎませんでした。

 しかし私自身は、捨てたものの大きさが、すなわち「神に対する愛の表現」であり、「他者に対する愛の表現」なのだと考えていました。

 私にとって、「自分を捨てること」は、「愛を表すための義務」であり、私は多くの場合、その「責任感」から不本意ながらも、主の戒めに従ってきたのだと気付きました。

 まだ若く、信仰も持っていない頃、「あなたの話には、責任という言葉が多過ぎる」と言われたことを思い出しました。

 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。 イザヤ43:4

 神は、「初めに」、私たちを愛してくださいました。

 愛されるに値しない、神に反逆し続ける私たちを、愛してくださいました。

 それゆえ、神は、そのひとり子さえも惜しまれず、犠牲を払ってくださいました。

 そして、御子イエス様も、自分のいのちを惜しむことなく、自ら進んで、十字架にかかってくださいました。

 神にとって、すべての「動機」は、私たちに対する「愛」でした。

 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

 私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 ピリピ3:7-8

 使徒パウロにとっても、かつては良い家柄や、世間で良い評判を得ることは「得」でした。

 しかし、キリストの価値を本当に知ったとき、キリストへの溢れる「愛ゆえ」に、すべてのものは捨てても差し支えのないものどころか、持っていることがかえって「損を招くもの」とさえ映るようになりました。

 彼らの「動機」は、溢れるばかりの愛でした。

 彼らにとって、捨てることは、「目的」ではなく、自然な「結果」でした。

 愛する者は、何もなくても、愛する人がただそこにいてくれるだけで、喜びに満たされます。

 愛する者は、愛する人の幸せだけを願うようになり、自分の利害を忘れてしまいます。

 愛する者は、客観的には、どんなに「損失」を被っているように見えたとしても、自らは、図らずも「何物にも代えがたい大きな喜び」の「圧倒的な受益者」となるのです。

 父なる神様。どうかあなたが、私の心を洗いきよめて、あなたの溢れるばかりの愛で満たしてくださいますように。

 そして、私のなすすべてのことの動機が、責任感ではなく、ただあなたへの熱い愛となりますように。

 そして私が「損得勘定の呪い」から、完全に解放されるように助けてください。

 私たちは愛しています。

 神がまず私たちを愛してくださったからです。 Ⅰヨハネ4:19