いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

混沌を喜び楽しむ信仰

 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」

 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

 こうして御使いは彼女から去って行った。 ルカ1:28-38

 二千年も前の時代、厳格な律法を持つユダヤ人社会で、まだ婚約中のマリヤに、御使いは衝撃的な預言を知らせました。

 未婚女性が妊娠したことが明らかになれば、どんな恐ろしい事態を招くことになるでしょう。

 生まれてくる子は神の子だと言われても、そんな話が世間の人々に通用するでしょうか。

 とんでもない白羽の矢が立ったものです。

 しかし、マリヤは、ひどくとまどいましたが、へりくだって、あなたのことばのとおりになりますようにと平安をもって受け入れました。

 御使いは「おめでとう」と言われました。原語には、「喜べ」との意味もあるようです。

 どうしてそれを喜べるでしょうか。

 もし私であれば、神のみこころなどそっちのけで、まず自分のメンツが保たれるのどうかが、頭の中を駆け巡るでしょう。

 私は幾度も主から、自分の内にある自己中心の性質を見せられますが、自己中心に気付くだけでは何の解決にもなりません。

 私はこの「もぐら叩き」に倦み疲れ、自己中心の根本的な構造について思い巡らせています。根が残っている限り、それは成長して、実を結ぶのです。

 そして、「保身」という言葉に、たどり着きました。

 私の立場、私の名誉、私の財産、「私の持っているもの」を保持することに固執し、それを将来にわたって、確保しておこうと汲々とすること。

 私の中に、この「保身」という欲がある限り、そこから生じる実は、とことん自己中心とならざるを得ません。

 そして、困ったことに明日のことは誰にもわからないのです。

 明日の「保身」まで考えると、自己中心の性質はいっそう欲深く、醜いものとなります。

 かつてアダムは、エデンの園にいて、そこには神の平和がありました。

 園には、いつも新鮮な木の実が備えられていて、その日ごとに、必要なだけ取って食べることができました。

 彼は神にまったく信頼し、神の御手の中に安息し、自らは何のリスク管理も行なっていませんでした。

 しかし、たったひとつの神の戒めを破ってしまった時、この幸いな神の園から追われ、自らの保身に汲々としなければならない者となりました。

 神の戒めを破るとは、つまり、神様のことばを信用しない、ということです。

 それゆえ、神のみことばを信じない者は、今も常に、保身に明け暮れなければなりません。

 もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

 ヨハネ8:31-32

 確かに主は私に、自力で何かを保持しておくようにとは言われませんでした。

 保身に走るのは、混沌とする未来に対する恐れであり、そのリスクを自力でコントロールしようとする無益な焦りでした。

 たとえ私が、保身に細心の注意を払ったところで、主の御前には、吹けば飛ぶような労苦です。

 いったい私にはまだ「保持しなければならないような自分」が残っているのでしょうか。

 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。 ルカ9:23-24

 主は、「自分を捨てる者」は、いのちを救うと言われたのです。

 マリヤは、混沌とした未来を前にして、「主があなたとともにおられる」という神のことばだけを拠りどころとし、まったく安息しました。

 私たちは、私たちを愛しておられる神のみことばに信頼したとき、混沌をも、喜び、楽しむことのできる者とされます。

 神は最善以外のことを、なさることのできないお方です。

 私の目には最善に見えないときも、主はその意味をも教えてくださいます。

 父なる神様。どうか私があなたのみことばにまったく信頼し、罪を招く「保身」から完全に解放されますように。

 そして、私がもはや自分のためにではなく、あなたと、あなたの愛しておられる人々のために生きることを喜びとする者としてくださいますように。

 主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。

 主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

 恐れてはならない。おののいてはならない。 申命記31:8