いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

主に従って歩むということの意味

 キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 Ⅱコリント5:15

 「主に従って歩む」ということは、プライオリティーの組み直しなどではなく、パラダイムシフトなのだと、ようやく悟り始めました。

 長らく私は、クリスチャンの信仰生活とは、自分のしたいことよりも、神様のみこころを優先させて生きること、或いは、地上の価値よりも、天の宝を大切に思うこと、のように相対的に捉えてきました。

 クリスチャンの祝福とは、神様を知らなかった人が神様を信じ受け入れて救われること、であると同時に、そこに至る私の功績が評価されること、のようにイメージしていました。

 しかし、イエス様を「主」としたということは、文字通り、私の人生の「主人公」が、「私」から「主イエス様」にチェンジしたということでした。

 私は、「主イエス様とともに主権を握る者」ではなく、また「主イエス様に次いで二番目にイニシアチブを握る者」でもなく、「主イエス様の命令に全面的に従うしもべ」でした。

 「YES WE CAN」ではなく、「ONLY HE CAN」です。

 その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマ(洗礼)をお授けになります。

 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。

 麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。 マタイ3:11-12

 かつて私は、自らの理想とする社会を実現するために、自ら外界に向かって働きかける者でした。

 私は、外界に潜む問題点を見出し、それらを解決するために全精力を費やしてきました。

 しかし今は、主がみこころを成し遂げるために、主が外界を通して「私」に働きかけておられます。

 主は、「私」に内在する罪、不純物をふるいにかけ、それを焼き尽くして、「私」をきよめるために、日夜、闘い続けておられます。

 

 すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。 ローマ11:36

 天地万物を造られ、この世のすべてを司っておられるのは神である以上、すべての出来事はすべての人にとって最善です。

 私にとっては都合の悪いことも、悲しく、辛いことも、理不尽に思われる出来事も、すべて神が深遠なる愛をもって与えてくださる最善です。

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 ローマ8:28

 すべてのことは、最終的に私たちの益となるように、細心のご配慮をもって起こされています。

 ですから、私が外界を好ましくないと思うなら、それは、私の見方、捉え方が間違っているのです。

 「問題」は、外界にあるのではなく、いつも「私」の中にあるのです。

 外界を誤ったものとみなし、外界を変えようとするのは、自分を正しい者とする私の自己中心です。

 私のこの古い価値観は、とことん私に付きまといます。

 父なる神様。あなたは、自分自身を主とし、神として生きてきた私のかたくなな心をも変えてくださり、御子イエス様を主と告白する信仰を与えてくださいました。

 けれども、私のうちには絶えず自分を主とし、神としようとする古い性質が働いています。

 あなたは、それを矯正し、きよめるために、すべての環境を通して、働きかけていてくださることを感謝します。

 どうか、イエス様を主として歩むということの意味を、さらに私が知ることができますように。そして、私が主イエス様に従って歩むことを通して、あなたの愛がすべての人々に注がれますように導いてください。

 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。 Ⅰペテロ4:2