愛には偽りがあってはなりません。 ローマ12:9
このみことばは、すなわち愛には、「偽りの愛」と、「偽りのない愛」があるという事実を示しています。
それは、非常に重たい私にある現実です。
私たちクリスチャンは、主イエス様の模範にならって、良い行いに励もうと心がけます。
しかし、それはしばしば的外れなものになります。
それは、神からのものではなく、人間の考えから出たものとなってしまうからです。
かつて私は未信者の両親に対して、例えば掃除、家事を行なうことによって、愛を示そうと努力していました。
けれど、母にとってそれは、大きなお世話でした。
私は母が必要としているものを尋ねることもなく、自分の考える善行を押し付けていたに過ぎませんでした。
振り返ってみると、私の愛の表現方法とは、自分の持っている有形・無形の資産を、相手のために分け与える行為でした。
それは、時間を割くことであったり、物を与えることであったりしますが、とりもなおさず、数量に還元できるものでした。
その与える愛の量は、無意識のうちに、実に巧妙に計算し尽くされています。
というのは、その量は、「その行為から得られる報酬」に見合ったものでなければならないからでした。
「これだけ愛を与えたのに、期待していたような反応が得られない…」と、自尊心が傷つけられることを恐れて、初めから、「もし感謝されなかったとしても、自分が痛みを感じない程度の愛」しか与えてこなかったような気がします。
言うまでもなく、それは、愛ではありません。
外見上は、いかにもクリスチャンっぽい行いであったり、愛の体裁が整っていたとしても、やはり偽りの愛です。
私が自己中心的である以上、そこから出てくる愛は、やはり自己中心的な愛です。
私の愛を、いつ、どこで、誰に、どのように与えるのか、コントロールしているのは、常に私です。
基本的に相手のニーズには、お構いありません。
相手にしてみれば、突然降りかかる災難にも似た状況でしょう。
あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。ルカ15:4-7
私の肉(生まれつきの性質)は、この羊飼いに、ほとんど共感を覚えることができません。
もともと100匹の羊を所有していたわけで、1匹取り戻したからと言っても、プラスマイナスゼロ。
この行為で羊が101匹に増えたなら喜ぶでしょうが…。
そもそも、99匹の羊を失うリスクを冒してまで、1匹を捜しに出かけるでしょうか。この羊飼いは計算ができない愚か者ではないでしょうか。
結局、見つかったから良かったようなものの、何の利益も生み出さなかったこの行為、安堵したにせよ、この出来の悪い1匹を喜ぶどころか、叱り飛ばしはしないでしょうか。
こんなことを思い巡らせている私に、主は言われました。
この1匹は、わたしが捜し出さなければ、永遠の滅びに至ってしまう。
わたしは、この1匹が滅びなかったことを、心から喜んでいるのだよ。
私はいつも、「自分の利益」を基準に、物事を考え、行動していました。
しかし、主はひたすら、「相手の利益だけ」を目当てとしておられました。
これこそが、「偽りの愛」と、「偽りのない愛」の違いでした。
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 ローマ5:8
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。 Ⅰヨハネ3:16
神は愛です。 Ⅰヨハネ4:16
主イエス様は、罪と滅びの中から私を救い出すために、ご自分のいのちをお捨てになりました。
主が私に与えてくださったものは、数量計のメーターなど振り切れてしまうほどの途方もない愛でした。
それは、私がまだ罪人であったときに、与えられた愛でした。
主の報酬、喜びは、私から感謝されることではなく、ただ私が永遠に滅びてしまわないことでした。
けれども、主は、その愛を私に強要なさいませんでした。
「私はあなたのために死ぬのだ」と恩着せがましく遺言を残すこともされませんでした。
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。
わたしが自分からいのちを捨てるのです。
わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。
わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 ヨハネ10:18
父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。 ルカ23:34
主の愛は、父なる神様の命令であると同時に、まったく自発的なものでした。
そして、主は、ご自分のいのちと引き換えに、目には見えない、罪の赦しを与えてくださいました。
それは、私たちが人生の中で、必要を覚えたときに、いつでもいただくことができるように、絶えることなく備えられています。
父なる神様。どうかあなたが私の心をきよめてくださり、私を偽りの愛から離れさせてください。
そして私が、ただ父なる神様にあるまことの愛をさらに教えられ、その働きに忠実に歩むことができるように助け、導いてください。
私は祈っています。
あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。
またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。 ピリピ1:9-11