いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

私を見捨てず、語りかけてくださる主

 

 主は言われる。わたしは生きている。

 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。 ローマ14:11

 未信者の友人から、こんなメールをいただきました。

 「ふと思ったのですが、貴女は、イエスを信じているのではなく、自分自身を信じておられるのではないですか。」

 この言葉を読んで、私はほとんど瀕死の状態になりました。

 それは、まさしく神である主が、彼を用いて、私に発しておられる警告でした。

 私は日々、まったく主に信頼して歩んでいるのでしょうか、それとも、自分自身の内にある何がしかの資産に拠り頼んで歩んでいるのでしょうか。

 私は主の御前にひれ伏し、何をどのように悔い改めれば良いのか、みこころを祈り求めました。

 二日後、目覚めるときに、こんなみことばが聞こえてきました。

 「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。

 あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。

 「エサウヤコブの兄ではなかったか。―主の御告げ。―わたしはヤコブを愛した。マラキ1:2

 神である主は、ふたごの兄弟の弟ヤコブを愛されました。

 それはヤコブが良い行いをしたからでも、能力が高かったからでもありませんでした。実に生まれる前から、ヤコブは愛されていました。

 それは、人間の側では、納得し難いものですが、天地万物をお造りになった神の主権によります。被造物である人間が、とやかく口を挟める筋合いのものではありません。

 神の選びの正しさは、終わりの日には誰の目にも明らかにされます。

 主イエス様を信じるように、私の心を開いてくださったのは、ただ神の一方的な恵みでした。

 かつて私は、神の御前に、生涯かけても払いきれない「罪」という負債を抱えた「多重債務者」でしたが、すべての負債を代位弁済してくださるイエス様を信じ、その負債から完全に解放されました。

 主イエス様は、私を負債ごと買い取ってくださり、将来の負債までも、すべて支払いを終えてくださいました。

 私は主イエス様にあって、もう二度と金融業者の取り立てに怯えて暮らす必要はありません。

 しかし、「私自身」は、破産者です。

 「私自身」が富豪になったのではなく、すべての富を持っておられる主イエス様のうちにとどまることによって、すべての富をあたかも自分のものの如くに用いることが許されたのです。

 それなのに、私はたびたび、この「恵みの法則」を忘れ、自分の力で歩んでいるかのような錯覚に陥ります。

 退職後、2年3ヵ月。途中、わずかの期間、外に出ることが許されましたが、今も長いトンネルの中を歩んでいます。

 未信者の頃であれば、こんな暗闇を歩むことなど、恐ろしくて到底できなかったでしょう。

 また以前の私の信仰でも、やはり不安で歩けなかったでしょう。

 しかし、「こんな暗闇でも歩けるようになった」と内心で自負するのは、信仰ではありませんでした。

 これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。ゼカリヤ4:6

 その日、―万軍の主の御告げ。―シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。―主の御告げ。―わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。ハガイ2:23

 ゼルバベルが主に召された理由は、ただ主が彼を選んだから、でした。

 メールの言葉は、生涯かかって主の矯正を受けなければならない私の「弱さ」でしょう。私は今も、この言葉を思い巡らせ、悟りを与えてくださるように祈り求めています。

 さて、メールには続けて、「自分自身を信じています」、「自分を信じられなくなったときは、絶望の淵が待っています」と書かれていました。私は彼のこの率直さに、信頼感と好感を持ちます。

 実は、ここが未信者とクリスチャンの「持っているもの」の最大の違いです。

 主ご自身がこう言われるのです。

 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」へブル13:5

 クリスチャンが自分を信じられなくなったときには、「私を決して見捨てることのない主イエス様」が待っています。

 私自身がどんなに絶望的な存在でも、すべてご存知で私を愛し、赦し、まるごと受け入れ、将来にわたって、決して私を見捨てず導いてくださるお方を持つ私たちは、いつも安息することができるのです。

 どうかすべての方が、変わることのない神のみことばを、信じて救われますように。

 彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。Ⅰペテロ2:6

 

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