コロナ禍で、私たちクリスチャンは、何ができるのでしょうか。
何をなすべきでしょうか。
1年ほど前、突然、私たちにコロナ禍が降りかかった時、私たちは振るわれました。
それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。申命記8:2
私たちは動揺し、何を選択したでしょうか。
私たちの心のうちにあるものとは、いったい何だったでしょうか。
私たちはそれぞれ、自分自身の心のうちにあったものを吟味しなければなりません。
私は今、緊急事態宣言下で、神の家で「ITによるリモート化」が進んでいくことに恐怖を感じています。
YouTube、Zoom、様々なオンラインシステムを駆使すれば、自宅にいながら、聖書のメッセージを聴き、礼拝に参加することまで、可能になりました。
いったいこれは、福音なのでしょうか。
私にとって、神の福音とは、「キリストによる死と葬りを通したよみがえり」です。
私はこの便利なシステムの中に、死も葬りも、ましてやよみがえりも感じることはありません。
そこに感じるのは、人間の知恵と人間の工夫、英知を誇る人間の高き所だけです。
「リモートシステムは、病気で出かけられないなど、特別な事情のある者にとっては、むしろ良いものなのではないか。」という反論があろうことは百も承知です。
しかし、私たちが問わなければならないことは、「良いか、悪いか」ではなく、「聖いか、聖くないか」ではないでしょうか。
「人間から出たものか、神から出たものか」ではないでしょうか。
イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。
「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」マルコ8:33
コロナ禍を今なお許しておられる生けるまことの神様と、私たちの主イエス・キリストは、このリモートシステムの活用を喜んでおられるのでしょうか。
リモートとは、遠隔です。
リモートシステムは、文字通り、私たちを神に近づけるのを助けるのではなく、むしろ遠ざけることを促進するものではないでしょうか。
そもそもリモートシステムがなければ、私たちは、方法や手段に走ることなく、真剣に祈ったことでしょう。
ともに集まり、みことばを聴き、パンを裂くことが困難な事態になれば、私たちには強い飢え渇きが起こされ、改めて、それらのことがどんな意味を持っていたのかを教えられ、それらの恵みの回復のために、ひれ伏して祈ることでしょう。
しかし、この時代にはリモートシステムというつまづきの石があるのです。
リモートシステムは、クリスチャンから、痛みや、飢え渇きや、祈りを取り除き、中途半端な自己満足感を与えるのです。
私はこれを「サタンの麻薬」と感じています。
私たちは、何に近づくべきでしょうか。
日々、進歩する文明の利器に近づいていくべきなのでしょうか。
私はむしろ原点に帰りたいのです。
何もない小さな集まりの中で、ともに聖書を開き、ともにみことばの恵みを分かち合う。
どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。ルカ10:42
「集まることによって、感染が広がるのではないか。」と心配する人もいます。
他方では、「信仰があれば感染はしない。」と主張する人もいます。
私は、信仰があれば感染しないなどとは思っていません。
クリスチャンでもガンに罹ることもあれば、事故にも会うのです。
感染するか否かは、最終的に、ただ神様のみこころによるのです。
私は、それが神様のみこころであれば、感染すれば良いと思うのです。
感染して、コロナ病棟に行き、そこで福音を語ることが神様のみこころなのかも知れません。
私たちは、地上のいのちと、神様のみことばのどちらを選ぶべきでしょうか。
私たちはクリスチャンです。
永遠のいのちを持っているのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。へブル4:16
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。へブル10:22-25