いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「AIパウロ」

「AIパウロ」について、考えさせられています。

「AIパウロ」とは、私の想像上の産物で、クリスチャン向けの、聖書に特化した対話型人工知能アシスタントです。

「ヘイ!パウロ」と語り掛ければ、間髪入れずに、聖書的な模範解答を与えてくれます。

 

「ヘイ!パウロ。コロナで困っているんだけど、どうすればいい?」

「聖書の〇章〇節には、こんな記事がある。△章△節には、こんな事例もある。□章□節では、このような勧めもある。したがって、…。」

 

「AIパウロ」には、ヘブル語、ギリシャ語を始めとしたあらゆる言語、様々な翻訳の聖書のみことばはもちろんのこと、幅広い歴史上のクリスチャンの聖書の解き明かし、学び、福音伝道メッセージまで搭載されています。

さらに「AIパウロ」には学習機能もあり、その利用者の検索履歴、SNS履歴、位置情報履歴などから思考パターン、行動パターン、志向パターンまで蓄積、分析し、利用者の喜びそうな最適回答に寄せていってくれるサービスまでついています。

 

あなたは、「AIパウロ」欲しくありませんか。

私たちは既に、技術的にはそれが可能な時代に立っていると思います。

本当に恐ろしいことです。

 

コンピューターのない時代に、聖書のみことばを読み、みことばの解き明かしをしてくださった先人たちは、どれほど主様に祈りながら、みことばを調べてこられたのだろうと頭の下がる思いがします。

 

この時代に生かされている私は、うろ覚えのみことばを思い出せない時、スマホでさくさく検索できるのです。それが果たして良いことなのかどうか、考えさせられます。

 

私たちの周りには、本当に多くの聖書知識が満ち溢れています。私たちは容易に知識を増し加えることができ、あたかも賢い者のように人に教える者となることができます。

しかし、このようにイージーな方法で知識を増し加えた私たちは、まさに「AIパウロ」のようではないでしょうか。

神様を愛して、聖書を学び、知識を蓄えていったはずなのに、いつの間にか、神様なしでも何の問題もなくやっていけるくらいに立派な者になってしまっていないでしょうか。神から始まり、人間に終わる…。


いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。Ⅰコリント4:7-8


私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。Ⅰコリント4:10

 

さて、「AIパウロ」は、私など到底太刀打ちできないほど聖書に精通しています。

私が伝道するよりも、「AIパウロ」が伝道した方が良くはないでしょうか。

幼く見える兄弟姉妹の助言に耳を傾けるよりも、「AIパウロ」に聞いた方が正しくはないでしょうか。

いったい、私たちには「AIパウロ」に勝るところがあるのでしょうか。

私たちは、何によって、「AIパウロ」に勝利できるのでしょうか。

 

現在の私の答えを書き留めてみたいと思います。

クリスチャンにあって、「AIパウロ」にないもの。

一つ目は、「十字架」、すなわち、自己否定です。


私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。ガラテヤ2:20

 

主様に贖われた者は、自己を否定し、キリストに立ちます。

「AIパウロ」は自己を否むことができません。自己否定すると何も残らないからです。

クリスチャンは自己を否んだ時、キリストだけが残るのです。

キリスト・イエスも、人として地上に来られた時、自己否定に立ち、父なる神様のご栄光を現わされました。


わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。ヨハネ6:38


わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。ヨハネ7:16


わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。ヨハネ8:42


「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」ルカ22:42

 

クリスチャンにあって、「AIパウロ」にないもの、二つ目は、「御霊(聖霊)」です。

これは、前記と重なるものですが、自己否定があるときに、御霊は完全に働かれるのだと思います。

 

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。ヨハネ6:63

 

私たちにある「永遠のいのち」、「イエスのいのち」は、御霊の働きです。

御霊を持たない「AIパウロ」は、決していのちを与えることができません。

御霊こそ、私たちをすべての真理に導いてくださるのです。

 

もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。ローマ8:13


神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。Ⅱコリント3:6

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。ヨハネ16:13-15

 

クリスチャンにあって、「AIパウロ」にないもの、三つめは「祈り」です。

「AIパウロ」は祈りについて巧みに教えますが、自分は決して祈りません。

「AIパウロ」は、祈りの言葉を知っていますから、お祈り風なメッセージを発することは可能でしょう。 しかし、それは祈りではありません。

いったい祈りとは何でしょうか。私は「AIパウロ」のような祈りをしてはいないでしょうか。


何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。ビリピ4:6

 

祈りとは、生ける神様との会話です。形式ではありません。

祈りについて、難しく定義しようとすると、私はかえって混乱しそうな気がします。

しかし、そんな私のために聖書は「何も思い煩わないで」とやさしい慰めのことばを与えてくださいます。

神様、主イエス様への感謝、賛美、願い、とりなし、何でも知っていただきましょう。


御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。ローマ8:26

 

私には、途方に暮れて、何をどう祈ったらよいのかまったくわからないようなこともしばしばあります。それでも、御霊がとりなしてくださるので、私は茫然として、神様の御前にただ座しているだけでも良いのだと安息します。


また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。

あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。マタイ6:7-8

 

神様はすべて知っていてくださいます。私たちは、自分の知識や知恵により頼むのではなく、この生けるまことの神様に祈らなければなりません。

神様なしでも、いちいち神様のみこころを伺わなくても、自分たちで判断できる、解決できるなどと、不遜にも考えるようなことがあってはなりません。

私たちは、悪魔に欺かれないように、最大限の警戒をし、常に神様の御前にへりくだらなければなりません。

 

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。エペソ6:18

 

クリスチャンにあって、「AIパウロ」にないもの、四つめは「模範(行い)」です。

「AIパウロ」は、口先だけです。自らは何も行うことがありません。

 

「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。マタイ23:2-4

 

さて、私たちは「行い」と聞くと、重荷に感じたり、逆に、目立つ働きをしようなどと功を焦るような行動に走りがちですが、いずれも甚だしい勘違いではないでしょうか。

 

私にとって、最高の模範は、「いつも静かに神様を喜んでいる人」です。

その人は穏やかで、落ち着きがあり、何事にも動じることがありません。

いつも優しく微笑んで、温かいまなざしで周囲を見守っています。

自分からは語らず、必要な時に、短く、適切なことばを話します。

居るか居ないか、ときにその存在に気付かないほどですが、気が付くと黙々と働いていたりします。

その人は、自らを隠そうとされる聖霊のような人です。

そのような模範は、誰を傷つけることもありません。そして、疲れた人を静かにいやしてくれるのです。過剰なサービス、行動が、神様のお役に立つわけではありません。

 

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。ローマ9:16

 

「AIパウロ」の時代にあって、私たちが、むしろ愚かで、弱く、貧しく、哀れな者として、ただ憐れみ深い神様におすがりし、愚直に歩んでいくことができますように。 

 

キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。Ⅰコリント1:17-29