いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

悔い改めて、生きよ

 

一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。箴言17:1

 

シンプルですが、実に深いみことばと考えさせられます。

ここには、平和の本質が描かれていると思います。

 

私はこのところ、ずっと「キリストの平和」について、思い巡らしています。

「キリストの平和」とは、何でしょう。

私はあまりにも「キリストの平和」を知らなさ過ぎる自分を恥じています。

私たちはさらに深く「キリストの平和」を知ることによって、キリストの福音を宣べ伝える者にふさわしく整えられなければならないと感じています。

私は「キリストの平和」を知ることを切に祈り求めています。

 

今、教えられているところまでに過ぎませんが、私自身が忘れないように、書き留めておきたいと思います。

 

それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」

「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」ローマ3:10-17

 

小学生だった頃の道徳の教科書に書いてあった一つの作文を思い出します。

それは、概ね次のような内容でした。

 

―僕の家は、悪者ばかりなので、とても平和です。

ある日、僕はお兄ちゃんとふざけて家の中を走り回っていました。その時、僕はちゃぶ台のお茶をこぼしてしまいました。

僕は言いました。「お母さん、ごめんなさい。僕はお茶をこぼしてしまいました。」

お兄ちゃんは言いました。「いいや、僕が悪かったんだ。弟を追いかけたりして。」

お母さんは言いました。「いいえ、お茶を置きっぱなしにしたお母さんが悪かったわ。」

僕の家は、悪者ばかりなので、とても平和です。ー

 

ひるがえって、私たちの神の家はどうでしょうか。

キリストの贖いを信じる信仰によって、「義と認められた」私たちは、「自分の正しさ」を誤信してはいないでしょうか。

私たちは、恵みによって、神の御目に「義と認められた」だけです。

現実は、聖書に書かれている通り、「義人はいない」のです。

「私は正しい」「私は間違っていない」と思うなら、すでに間違っているのです。

前出の「僕の家は、悪者ばかりなので、とても平和」だとしたら、「正しい人ばかりの家」には、決して平和はないでしょう。

「僕は悪くない。追いかけたお兄ちゃんが悪い。」「こぼした弟が悪い。」

正しい人ばかりの家とは、このようなものです。

 

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。コロサイ1:19-20

 

義人はいないのです。私たちには、平和を造り出す力などありません。

しかし、感謝すべきことに、平和は十字架の血によって、すでに実現されたのです。

私たちにできることは、それを破壊することだけです。

平和を破壊するのは、「私は正しい」と主張して譲らない、かたくなな心なのではないでしょうか。

  

 さて、地獄とは何でしょうか。

私は一つの定義を考えました。

「地獄とは、悔い改めができない所である。」

地獄は、生きている間に、「悔い改めて、イエス・キリストの福音を信じる」ことのなかった者の行き着く所です。

「悔い改め」とは、原語の意味では、心の向きを変えることです。

自己中心で、自分ばかりを見ていた心を、神を主と仰ぎ、神に向け直すことです。

生きている間に、神に背を向け続けた者は、死んで後、神を知りますが、もはや向きを変えることができません。

 

神は永遠から永遠まで光であられ、愛であられます。

神は常に光であられ、愛に満ちておられます。

しかし、人は、神に背を向け、自ら、闇を見るようになりました。

自分が尊大であればあるほど、自らの影はより大きいことでしょう。

 

もし、私たちが、今、目の前に希望の光が見えないと思うなら、向きを変えると良いのです。

神の愛が見えないと思うのなら、向きを変えると良いのです。

神に背を向けている時にだけ、私たちは暗闇に住むのです。

私たちクリスチャンは、みな「自分は神を見ている」と思い込んでいます。

積極的に神に背を向けようと思うクリスチャンなどいないでしょう。

しかし、私自身の経験で言えば、「私は神様を誰よりも愛しているし、神様だけを見ている」と確信していた私には、「神様が真に願っていたことがまったく理解できていなかった」という恐ろしい現実があるのです。

悪意ではないのです。

単純な愚かさゆえに、神に向いているつもりでも、神みこころの核心を捉えきることができないのです。

救われて、御霊を与えられていても、肉にある私たちは常に、そのような存在なのです。

私たちはいつも、神様の御前にへりくだって、向きを修正し続けていただかなければなりません。

「私は正しい」と固執して、向きを変えない者は、すでにさばかれているのです。

  

ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。ローマ2:5

 

 あなたがたは、『主の態度は公正でない』と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。

正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。

しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。

彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。

それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない』と言う。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。

それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。―神である主の御告げ―悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。

わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ―だから、悔い改めて、生きよ。エゼキエル18:25-32

 

あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。ルカ13:3、13:5

  

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。マタイ18:3

 

義人はいないのです。

私はどこまでいっても罪人であり、決して正しくはないのです。

私たちは正しくない判断、間違いを恐れます。それは幸いなことです。

しかし、私たちは自分の知識によって自分の正しさを証明しようとする律法学者やパリサイ人のようであってはならないと思います。

どれだけ聖書を調べても、何が神様の御目に正しいことか、悟り尽くすことができないことを知り、常に幼子のように、神様の憐れみと愛に信頼して、神様の御前にへりくだって歩むこと、それが福音の道ではないでしょうか。

 

私は日々、知らなかったこと、気付かなかったこと、見えていなかったことを教えられるたびに、自分は決して正しい者にはならないことを知ります。

どこまで行っても、決してすべては見えないのです。

でも、それで良いのです。

決して、すべては見えないことを悟り、そんな私を愛して、慈しんで、養い続けてくださる神様を知っているのですから。

 

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。黙示録3:17-20

 

平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。IIコリント13:11