いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

新型コロナウィルスと高ぶりの罪

 
主様は、なぜコロナ禍を許されたのでしょうか。
なぜ今なお、コロナ禍を許し続けておられるのでしょうか。
 
そのことを考え続けるうちに、聖書の中で、ツァラアト(らい病)が罪の型であったように、新型コロナウィルスもまた私たちの罪の型なのではないかと思うようになりました。
 
それは、私たちの「高慢の罪」です。
それは、目視することの困難な罪です。
初めは無自覚で、うわべは無症状ですが、体内では確実に身体を蝕み、ある時、突然、激症化します。
無症状感染者は、善意でウイルスをばら撒いています。
 
私たちクリスチャンに適用するなら、礼拝にも、祈り会にも、学び会にも、休まず出席し、自分の信仰生活に何の問題も感じていない状態です。
熟練したクリスチャンは、TPOに応じて非常に謙遜な態度を選択することが可能です。
しかし、その心の内はどうでしょうか。私たちはそれぞれ自分自身を吟味して、自分を裁かなければならないと思います。
 
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ルカ18:11-12
 
私たちは多くの先人たちが血と汗と涙のにじむような闘いを通して解き明かしてくださった数々の真理を容易に入手できる時代に生きています。
私たちはさしたる労苦もなく、安易に知識を増し加えることによって、愚かにも非常に高ぶった者になってはいないでしょうか。
 
知識人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。Ⅰコリント8:1
 
私たちは「真理を知っている」と誇ってはいないでしょうか。
 

エスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」ヨハネ9:41

 

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。黙示録3:17

 

私たちのうちに、高ぶりの罪があるなら、その腐った源からは、腐敗臭の漂うものしか出てきません。
 
ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」ルカ10:40
 
マルタは、自分の立派な行いを誇り、妹を見下していました。
マルタの奉仕自体は、善行であり、うわべは良い行いです。
 
人はうわべを見るが、主は心を見る。Ⅰサムエル16:7
 
その後、マルタは「教師としての主イエス様」ではなく、「兄弟ラザロをよみがえらせてくださった主イエス様」にお会いして、心を一新されました。
 
エス過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ヨハネ12:1-2
 
マルタは相変わらず奉仕していました。うわべは同じであり、人の目には違いはないかも知れません。
しかし、マルタの目は、妹ではなく、主イエス様に注がれ、マルタの心のうちには、主イエス様に対する愛と、父なる神様に対する正しい畏れがしっかりと据えられたのではないでしょうか。
 
人の目には、まったく同じことをしているように見えても、その内面の源はまったく異なることがあります。
 
コロナ禍で、他のクリスチャンたちはどうしているだろう、など気になることもあるかも知れませんが、肝心なことは、うわべではありません。
私たちの責任は、それぞれ自分自身を主様の御前によくよく吟味することではないでしょうか。
 
集会出席も、祈ることも、悔い改めも、本質的に私たち自身から出てくるものではなく、すべては「主様の恵みのわざ」なのだと思います。
 
「私が集会出席した」のではなく、主様が出席できるように守り、導いてくださっただけです。
「私が祈った」のではなく、主様が祈ることができるように助け、導いてくださったのです。
 
とりわけ、「悔い改め」は、決して人間からは出てこないものだと感じます。悔い改めは、主様の恵みと御霊の導きによるのであり、私たちはただ「アーメン」と言えるだけです。
それは、未信者も、クリスチャンも同じだと思います。
どれほど聖霊の導きがあっても、かたくなに「アーメンと言わない権利」は私たちにあります。
他者から「悔い改めよ」と言われたら、意地でも「アーメン」とは言わないでしょう。
 
「アーメン」と言えるのは、ただ神様の恵みによります。私たちの力によるのではありません。
だから、そのような「アーメン」は、決して誇りません。
 
神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。Ⅱ歴代誌25:8
 
私たちは、心底、この主様を畏れることを教えられなければなりません。
 
今、日本はしばしの小康状態にあり、緊急事態宣言は一旦、解除されました。
今は恵みによって与えられた「悔い改める機会(黙示録2:21)」なのではないでしょうか。
 

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。Ⅱペテロ3:9

 

クリスチャンである私たちは、主様の恵みによって、日々、悔い改めに進みましょう。

 

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。黙示録3:19

 

主様は、「愛する者」を、愛するがゆえに、しかったり、懲らしめたりされるのです。

恵みの力によって、幼子のように素直に、「アーメン」と悔い改めることができるように、熱心になって祈りましょう。

主様の憐れみが、かたくなな私たちの上に豊かにありますように、切にお祈りいたします。