いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

透き通った信仰

あなたはどんなクリスチャンになりたいと思いますか。

私には、憧れる多くの先人たちがあります。

私はカトリックではありませんが、映画ブラザー・サン シスター・ムーンで見たアッシジの聖フランチェスコ、第2次世界大戦時にナチスアウシュビッツ強制収容所で身代わりの死を遂げたコルベ神父、マザーテレサリジューの聖テレーズなどの聖い生き方に、切ないほどの憧れがあります。

彼らは、その生涯を生きておられる唯一の神様に捧げました。

彼らの信仰は、混じりけのない単純な聖さの中にありました。

 

あなたはどんな色が好きですか。

天を象徴する青、平和を表す緑、主イエス様の御血を覚える赤。

私は長い間、クリスチャンを示す色として、ふさわしいのは聖さを証しする白だと思っていました。

 

たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。 イザヤ1:18

 

しかし、聖書の中には、もう一つの色がありました。

 

そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて 青空のようであった。出エジプト24:10

 

都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。黙示録21:11

 

その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。黙示録21:18

 

また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。黙示録21:21

 

それは、「透明」という色です。

「透き通った色」、それを色と呼べるかどうかわかりませんが、それはなんと美しい景色でしょう。

「透明」とは、「無」に等しいものです。

これこそクリスチャンにふさわしい色ではないでしょうか。

 

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。ビリピ2:6-11

 

私たちの救い主イエス様は、地上で、ご自分を無にされることを通して、父なる神様のご栄光を現わされました。

主イエス様が透明になることを通して、御父の御姿が私たちにはっきりと示されたのです。

 

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。Ⅰコリント3:16

 

今、私たちクリスチャンは、神の神殿であり、神の御霊が私たちに宿っておられます。

私たちが自分を無にするとき、透明になる時、私たちのうちに宿っておられる神の御霊が明らかにされるのではないでしょうか。

 

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。Ⅰコリント6:19-20

 

神の栄光を現わすとは、自分のからだを神様に明け渡すこと、自分を無にすることです。

私自身の価値をゼロと認める時、相対的に神の価値は無限大に現わされます。

 

濁りのない透明な者になりたいと切に願います。

 

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