いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「みことばに忠実」とは

みことばに忠実な神の家が建てられることを切実に願っていました。

それは、私自身がそのようではない聖書メッセージを聞いて、信仰を持ち、すぐに歩めなくなってしまったからです。

 

それは、端的に言うなら、ご利益宗教に近い「福音」でした。

イエス・キリストは、あなたを愛しています。

イエス・キリストを信じる者は、罪が赦されます。

イエス・キリストは、あなたに恵みを与えてくれます。

 

イエス・キリストを信じた私は、幸せになるはずでした。

ところが、現実はまったく異なるものでした。

エス様は私を愛しておられない。そう思いました。

そんな私が神の家を離れないでいられたのは、未信者の両親のおかげでした。

たとえ私の現状がどうであれ、両親には天国に行ってもらいたい。不信仰な両親に福音を聞かせるためだけに、私はひたすら送迎を続けました。

 

忍耐強い神様の長いお取り扱いを通して、私は改めて、福音を学び直すことができました。

それは、聖書の都合の良いところだけをダイジェストしたような福音メッセージではなく、聖書全体を忠実に読むことを通して語られる福音メッセージでした。

 

みことばは聖書全体の中で、理解しなければなりません。

この世でも、インパクトのあるセリフだけを切り取ったような、本質的でないニュースがしばしば問題になりますが、一部分だけを切り取らざるを得ない時は、どれだけ全体を理解できているかが極めて重要になります。

そうでなければ、人に誤解や混乱を与えるような非常に偏った情報を伝えてしまうことになります。

私たちは、繰り返し聖書を読まなければなりません。

 

さて、7年前、主様の恵みによって、念願だったみことばに忠実と呼べる神の家が与えられました。

それはどれほど大きな喜びであったことでしょう。

もはや、かつての私のように、みことばのいいとこ取りをして、道に迷い、つまづき倒れる信者は生まれないでしょう。

 

そして、主様の恵みによって7年の幸いな豊作の時を過ごした後、コロナ禍が私たちを襲いました。

コロナ下で、どのように神の家の集まりを守り、どのように証すべきか、私たちは大いに動揺し、混乱しました。

今も神の家における「新しい生活様式」の模索と、試行錯誤が繰り返されています。

 

しかしそれらは、私にとって、キリストのかおりではなく、人間臭のするものばかりでした。

コロナは、容赦なく私たちの足元の覆いを取り除き、暴き出しました。

私が足元を見ると、驚くべきことに、それは砂地でした。

私は堅い岩の上に立っていたはずでした。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。

私たちは、みことばに堅く立っていたのではないのでしょうか。

 

目を上げると、コロナ下でも、ほとんど動揺を見せず、注意深く配慮を行いつつも、これまで通りに、神の家の集まりを保ち続けている人々がいました。

そして、気付きました。

彼らは、堅い岩の上に立っていたのです。

 

あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。黙示録2:5

 

私たちは悔い改めなければなりません。

確かに、この神の家の兄弟姉妹は、聖書をよく学んだ熟練者ばかりです。

しかし、そのことに満足し、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。 黙示録3:17」のではないかと気付かされました。

しかし、どんなに言葉を尽くしても、伝わりません。

 

エスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」 ヨハネ9:41

 

どれほど聖書に精通していても、「もしかしたら、私は見えていないのではないか。」と常に自分を探り、疑うくらいに、へりくだった神への畏れがなければ、クリスチャンとしてはまったく役に立たない者になってしまうのではないでしょうか。

 

さて、エデンの園の中央に、2本の木がありました。

それは、「いのちの木」と「善悪の知識の木」でした。

随分前に、ある兄弟が「善悪の知識の木とは、律法である」と教えてくださいました。

そのときは、そういう解釈もありかなという程度でしたが、時を経て、しみじみとアーメンと言えるようになってきました。

 

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。創世記3:1-6

 

蛇は一言も「善悪の知識の木」という言葉を発していません。

しかしエバが興味を持ったのはいのちの木ではなく、善悪の知識の木でした。

人の目に慕わしかったのは善悪の知識の木だけだったのでしょう。「それを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と言われた「賢くするというその木」は人間にとって「いかにも好ましかった」のです。

しかし、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。 Ⅰコリント8:1

 

一方、いのちの木は、人間の目には、まったく注意を引くところのないどころか、あたかも枯れ木のように見えたのではないでしょうか。

そこにある、甘露なる実も、人間の目には、とても口にしたいとは思わないような姿をしていたのではないでしょうか。

 

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 イザヤ53:2

 

枯れ木で思い出されるのは、アロンの杖です。

 

わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。民数記17:5

 

その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。民数記17:8

 

アロンの杖は、「完全に死んだ木」に 過ぎませんでしたが、神の御力によって、いのちを与えられました。

アロンの杖は、十字架の型であり、芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んだ杖は、よみがえられた主イエス・キリストの型でした。

 

また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。へブル9:3-4

 

契約の箱の中には、いわゆる三種の神器が納められていました。

「マナの入った金のつぼ」、「芽を出したアロンの杖」、「契約の二つの板」です。

それが明らかにされたのは、新約の時代です。旧約聖書において、箱の中身として明確に示されているのは十戒の描かれた二枚の石の板、つまり、律法だけでした。

 

箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。 出エジプト25:21

 

箱の中には、二枚の石の板のほかには何も入っていなかった。これは、イスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブでそこに納めたものである。 Ⅰ列王記8:9

 

箱の中には、二枚の板のほかには何も入っていなかった。これは、イスラエル人がエジプトから出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブで入れたものである。 Ⅱ歴代誌5:10

 

つまり、旧約時代には、律法だけが明らかにされ、「マナの入った金の壺」と「芽を出したアロンの杖」は隠されていました。

「芽を出したアロンの杖」は、十字架の購いでした。

では、「マナの入った金の壺」とは何だったでしょう。

マナは、日々、私たちが集めて、食べることで、いのちを与えられるみことばの型でした。

マナは「金の壺」に納められていました。「金の壺」は、もちろん主イエス・キリストの型でしょう。

 

では、律法といのちのみことばの違いとは、いったい何でしょう。

同じ神のみことばですが、石の板は冷たく硬くて死をもたらし、マナは蜜を入れたせんべいのようでいのちをもたらすのです。

この両者の間にあるのがアロンの杖、すなわち十字架です。

十字架こそ、石の板をマナに変えるのものです。

 

すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」マタイ4:3

 

サタンはキリストの成し遂げようとしておられることを知っていたのではないでしょうか。

神の子なら、口先一つで、石の板をマナに変えられるはずだと誘惑しているように思われます。

十字架など不要だ。馬鹿げている。なぜ辛く苦しい痛い思いをする必要があるのだと。

しかし、キリストは、御自身を満たすパンを否み、御自身を十字架にお付けになりました。

そして、口先のことばによってではなく、十字架によって、律法をいのちのみことばに変えられたのです。

 

私たちは、充分にみことばを知っています。そして、未信者にみことばを教えることができます。

しかし、そこに十字架がないなら、それは死をもたらす律法に過ぎません。

十字架のない、つまり、自己否定のない福音は、上から目線の律法に他なりません。

 

わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。ルカ11:52

 

知識のかぎ」とは、十字架ではないでしょうか。十字架は、いつも「開く」神の御力です。十字架こそ、律法を開き、いのちのみことばを解放するかぎです。

 

「みことばに忠実な神の家」は、単に聖書を良く学んでいるだけでは実現しないのです。

聖書の知識に精通するだけで、みことばに忠実な神の家が建て上げられるのなら、「AIパウロ」を造れば良いのです。もはや私たちは、それが実現可能な時代に生きているのです。人間など不要です。「AIパウロ」は、先人たちの聖書の解き明かしまでデータベース化して、すべての問いに、瞬時に正確に答えてくれるでしょう。

ただし、「AIパウロ」は特権的立場を保ちたい人々によって、退けられるでしょうが。

 

私たちは、決して「AIパウロ」のようであってはなりません。

私たちは、本当に絶望的に何もわかっていないのです。

実際、今もコロナにどのように立ち向かうべきかすらわからないのです。

にもかかわらず、自分たちの聖書知識を過信し、人間の知恵と、人間の努力、人間の奮闘によって、進もうとしているのです。

 

コロナに、豪雨、地震と、立て続けに襲いかかる災害は、私たちに人間の無力さを悟らせ、神を恐れ、神の御前にへりくだり、ひれ伏し、神にのみより頼む者とするためなのではないでしょうか。

 

己のむなしさを素直に認め、己の「人間」を十字架に釘付けられたものとして受け容れ、幼子のように、よみがえられたキリストの福音の中に生かされましょう。

 

十字架に立つことによってのみ、私たちは生きるのです。

十字架だけが、私たちを福音による神の安息に導くのです。

 

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。Ⅰコリント2:1-5

 

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。Ⅱコリント4:10-12