「下がれ。サタン。」とは、あまり穏やかなメッセージではありません。
しかし最近、様々な局面で、このみことばを思い起こしています。
そもそも、このみことばは、どのような状況で発せられたのかを覚えてみたいと思います。
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」マタイ16:21-23
主イエス様は、ご自身が「苦しみを受け、殺される」ことを証ししました。
その衝撃的なメッセージは、人間的にはあまりにも残酷で到底受け入れ難いものでした。
それで、ペテロはとっさにそれを否定して、神様の御恵みにすがりました。
ペテロの発した言葉は、間違いなく「善意から出たもの」でしょう。
しかし、それは「神のことを思わないで、人のことを思って」出た言葉でした。
クリスチャンである私たちは、いつも人の役に立ちたいとか、誰かを助けたいと願うものです。それは、御霊なる神様の働きによるものだと思います。
救われる以前は、そんなことを考えたこともなかったのに、そんな思いを持たせてくださった父なる神様の尊い御名を賛美いたします。
ただ、私たちはまた多くの点で失敗する者です。
しばしばペテロのように、人間的な配慮から、的外れな言動をしてしまうことが少なくないように思います。
そのたびに私は、「下がれ。サタン。」というみことばを思い起こすのです。
神の家では、多くの良い働きが行われます。
しかし時に、それは本当に主様の願っておられることなのだろうかと、疑問に思うこともあります。
そんな時に私がしばしば耳にするのが、この言葉です。
「悪いことではないから。」
いったい、悪いことでなければ、何をしても良いのでしょうか。
私は思います。「悪いことではない」ことは、「良いこと」ではありません。そこには「良いこと」と言い切れない何がしかの後ろめたさがあるのです。つまり、「悪いこと」です。
「悪いこと」は、行うべきではありません。「良いこと」と確信が持てない程度のことは、しなくても良いことであり、しない方が幸いと思います。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
確かに、私たちは聖書に書かれていない個別具体的なことについては、何が神様のみこころなのか、悟ることが困難な者です。
ただ、「わからないから、取り敢えずやってみる。」とか、「祈って行うなら、問題ない。」などと安易に行動すべきではないと思うのです。
肉の性質は、待つことができません。
私たちは、本当に神様のみこころを悟り難い愚か者として、御前にへりくだり、静まって神様のみこころを求める時を持たなければならないと思います。
自分の知恵や力で、何事かをなすことができるかのように思い上がる時に、私たちの唇に「悪いことではない」というエクスキューズが上ってくるのではないでしょうか。
すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」ヨハネ6:28-29
私たちは、そもそも神様の役に立つような存在ではありません。
いつも「あなたはわたしの邪魔をするものだ。」と言われるにふさわしい者だと思います。
私たちは、何をすべきでしょうか。神が遣わした者、すなわち主イエス様を信じること、です。
冒頭の、「下がれ。サタン。」に続くのは、次のみことばです。
それから、イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。マタイ16:24-25
主イエス様を信じ、主イエス様について行きたいと願うなら、「自分を捨て」なければなりません。
自分の計画、自分の考え、自分の思いを捨てた上で、主イエス様に従いましょう。
自分の考えによって、「いのちを救おうと思う者はそれを失」うのです。
誰のためにでもなく、ただ私たちの救い主なるイエス様のために、いのちを失いましょう。