いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

謙遜とは、行いではなく人格である

 

みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。Ⅰペテロ5:5

 

謙遜とは、何でしょうか。

辞書によれば、「へりくだること。控え目なつつましい態度でふるまうこと。」「自分の能力・価値などを低く評価すること。控えめに振る舞うこと。」などと書かれています。

 

それで、私たちクリスチャンは、「謙遜を身に着けよう」と志し、「へりくだって、控え目なつつましい態度でふるまおう。」と努力します。

 

それは「良いこと」であり、「悪いこと」には決して見えません。

しかし私は誤解を恐れずに、敢えて言います。

「謙遜を身に着けようと志し、へりくだって、控え目なつつましい態度でふるまおうと努力すること」は、悪いことです。

それは聖書の教える真の「福音ではない」からです。

 

何度でも言いますが、「クリスチャンだから」という理由、また理屈で行っていることは、すべて「律法の行い」です。

しぶしぶであろうが、喜んでであろうが、それを行っているのはクリスチャンである「私」です。

「私」が行っている行為は、端的に言えば「肉の行い」です。

良いことであれば、「肉の行い」でも良いでしょうか。

良い行いであれば、「偽善」でも良いでしょうか。

この世の基準で言えば、それは良いことでしょう。

しかし、それは、「クリスチャンに与えられた福音」ではありません。

 

あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。ガラテヤ3:3

 

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。

また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。Iコリント15:1-5

 

福音とは、人の努力によって実現するものではありません。

謙遜について言えば、謙遜は「へりくだる」という動詞によって表されていますが、そもそも謙遜とは、動詞であってはならないものではないでしょうか。

「ここはひとつ、へりくだっておこうか。」とか、「この人には、そこまでへりくだらなくても良いのではないか。」などと、TPOに応じて、私が選択的に変化させられる「行い」や「振る舞い」ではないと思うのです。

 

キリストの謙遜とは、キリストのご性質そのものです。それは、麗しい「行動様式」ではありません。

クリスチャンの謙遜とは、行いではなく、人格そのものであるべきです。

行いは時と場合によって変化しますが、人格、人柄、人となりは揺れ動くことがありません。

 

けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」ガラテヤ2:18-21

 

言うまでもありませんが、私の人格には、謙遜のかけらも見当たりません。

しかし、感謝すべきことに、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

私のうちに、「キリストの謙遜が生きている」のです。私は「私の努力によって」ではなく、「信仰によって」その謙遜の中に住みたいと思います。

そこは、キリストにある幼子の解放の地であり、安息の地です。

 

バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ガラテヤ3;27

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。ガラテヤ5:1

 

できない努力に打ちひしがれている兄弟姉妹。キリストのもとに行きましょう。

へりくだったご性質のキリストの中にかくまっていただきましょう。

 

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11:28-30