いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

福音との闘い

あなたは「福音と闘った」、あるいは「福音と格闘した」経験がおありでしょうか。

 

それは、「福音のための闘い」ではなく、「福音を妨げるものとの闘い」でもありません。 

まさしく「神の福音」そのものとの闘いです。


エスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」 
そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」 ヨハネ2:19-20

 

主イエス様は、あろうことかユダヤ人たちが、四十六年もの歳月をかけて、額に汗し、血と涙のにじむような労苦をして建てた「神殿」を壊してみなさいなどと挑戦的なことを口にされました。しかも三日で建てるなどとふざけたことを言われたユダヤ人たちの激怒はいかばかりであったことでしょう。

 

「神の福音」とは、かくの如く人の努力や奮闘をあざ笑うかのように、いともたやすくぶち壊す壮絶な破壊力を持つものなのです。

 

実際には、「エスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである(ヨハネ2:21)」のですが、「この福音」は当時のユダヤ人たちが勘違いしたような誤解を、しばしば招くものなのです。

 

「福音」とは、本来、良き訪れ、喜ばしい知らせです。

 

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」使途16:31

 

「私の罪のために、死なれ、葬られ、三日目によみがえられた主イエス・キリストを信じれば救われる。」これが福音です。

ここには、私の努力や、私の工夫、私の奮闘が働く余地は一切ありません。

はっきり言って、私のありとあらゆる関与を拒むものなのです。

これでは、私の立つ瀬がないではないか…。

私たちが何十年もかけて、築き上げてきた人生を全否定するのか!!!

 

それゆえ、「福音」は、真面目に努力してきた人々の反感を買います。

「努力してこそ救われるべきだ!」と人は考えます。

それゆえ真面目な人々は、修行を尊び、修行にいそしみます。修行することで、人は救われると信じているからでしょう。

これこそが「福音との闘い」です。

 

①努力なしで「信じた者は救われる。」

②「努力した者は救われる。」

どちらが幸いでしょうか。

冷静に考えれば、①が良いに決まっています。世の中には、努力できない環境に置かれた人々もいるのです。

 

それでも、②「努力した者は救われる。」を選択する、すなわち「信仰する」のはなぜでしょうか。

 

私自身の人生を振り返るならば、「福音を受け入れてしまうと、私の人生が全否定されてしまう。」と直感したからでした。それは不正義に出会ったときに感じるような怒りに近い感情でした。

 

 

しかし私たちは、主イエス様とともに葬られなければならない罪人です。


私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。


もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。


このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。 ローマ6:6-11

 

クリスチャンである私たちは、すでにキリストとともに死んだのです。

なぜもう一度、「私の努力」に頼もうとするのでしょうか。

「福音」です。主イエスを信じて、救われてからも、常に「福音」です。

福音と闘うなどという愚かな道に歩んで、人生を無駄に費やしてはなりません。

 

けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。ガラテヤ2:18-21

 

このように語ると、やはり努力の好きな、真面目なクリスチャンの反発を買うかもしれません。しかし「人の努力による道」は、「福音と闘う道」です。

 

私たちの道は、「福音に従う道」です。それは決して、安易な道ではありません。

もしかすると「自分の好き勝手な努力」よりも、肉にとってははるかに険しい道かもしれません。

しかし、それこそが真の「福音の道」なのです。


もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。 Ⅰコリント15:2

 

この福音に従ったとき、私のこれまでの血と汗と涙のにじむような多くの労苦、すなわち木っ端みじんに打ち砕かれた「かつて私の建てた神殿」に、「新しい価値」と「新しい意味付け」を与えられます。

そして、慈愛に満ちた主イエス様は、今にして思えば実に馬鹿馬鹿しいような、徒労だったとしか思われないようなその労苦すら、無駄ではなかったと教えてくださいます。


苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 詩編119:71

 

私たちが、主イエス様が開いてくださった尊い福音の道に、心からの感謝と賛美をもって従っていくことができますように。