いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

善行という罪

彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」I列王記19:4

 

鬱(うつ)という状態を自分なりに定義してみました。

「うつとは、極度の心身の疲労と緊張により、期待役割を果たすことができなくなった状態をいう。」

 

「期待役割」とは、本人が勝手に思い込んでいるだけの場合もありますし、実際に他者が期待している場合もあります。

 

冒頭のみことばの主人公であるエリヤは、聖書の中では珍しく父の名の明らかでない、孤高の預言者です。

エリヤは驚くような大きな働きをしましたが、ここではまさにうつ状態に入っていました。

エリヤが変わった訳ではありません。

ただエリヤは、心身ともに疲労困憊し、これ以上の期待役割を果たすことに困難を感じ、期待役割という重過ぎるプレッシャーから逃れるために、ひとり荒野に入って行きました。

 

うつに入ると、エリヤの行動パターンは非常によく理解できます。

エリヤは、「若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。」のです。

若い者は、エリヤのしもべとして、エリヤの望むことなら、どんなことでもしたでしょう。

しかし、うつ状態のエリヤにとって、若い者は重荷であり、プレッシャーを感じるストレッサーでしかなかったので、若い者を残して、一人で荒野に退いたのです。

 

しかし、うつを知らない人は、しばしば善意から、荒野に逃れる者に近づいて来て、声をかけます。

「あなたは大事な人だから、早く良くなってください。」

「私にできることがあれば、何でも言ってください。」

「いつも〇〇なあなたを尊敬しています。」

これらの善意の声かけが、どれほどうつの人のプレッシャーになっているのか、わからないのです。

 

これらはすべて、うつの人に、何らかの言動や役割を期待し、要求するものです。

「今のあなた」は間違いであり、「以前のあなたでなければならない」という前提に立っています。

しかし、「うつの私」も「以前の私」も私自身なのです。

うつになると、そもそも「以前の私」は、本当の自分だったのか、と自問するようになります。

「本当の自分ではない自分」=「期待役割」を無理をして演じていただけだったのではないかと。

そう考えると、「うつの自分」こそ、本来の自分の姿なのかも知れません。

 

いずれにしても、これらすべての自分が、自分なのです。

にも関わらず、「以前の私」を「正しい私」と考えて、「うつの私」を否定されることは、とても苦しいことです。

人が近づく度に、人に心配をかけないために、「以前の私」を演じなければならなくなります。

 

多く場合、善行には躊躇がありません。

善行はたいてい、恐れげもなく行われます。

本人は、「良いことをしている」と確信しているので、すがすがしい気持ちで、胸を張って、喜んで行なっているのです。

 

しかし、冷静に考えてみると、「絶対的な善行」など、あるのでしょうか。

「私の考える善行」は、本当に「他者にとっても善行」なのでしょうか。

 

電車でお年寄りに席を譲ることは、一般的に言えば、「善行」でしょう。

しかし、ある人は「年寄り扱いされた」と心外に感じるかも知れません。

肝心なことは、「善行を受けた相手」が、不快に感じるのであれば、それは少なくとも相手にとっては「善行ではなかった」ということです。

自分の価値観を絶対視していると、「せっかく席を譲ってあげたのに」などという的外れな発言が出てきます。

 

それはまさに「的外れ」で、「自分の考え、価値観」に的が当たっており、「相手」から的が外れているのです。

聖書の「罪」という原語は、「的外れ」の意味であると聞いたことがあります。

善行の目的は何でしょうか。

「私の満足」でしょうか。

それとも、「相手の満足」でしょうか。

 

的が外れた善行は、罪になりうるのだと思います。

 

例え私が善意から行なったとしても、もし相手が不快に感じるのであれば、素直に「ごめんなさい」でしょう。

善意であるからすべて許される訳ではありません。

 

「私の善意の言動」が、誰かを苦しめたり、迷惑をかけてしまうことは、実は沢山あるのではないかと、改めて考えさせられました。

 

善を行う者は、ほとんどの場合、無自覚ですが、「私の善行によって、私の犠牲によって、相手は利益を得て、私に感謝するであろう。」と、思い込んでいるのではないでしょうか。

そこにあるのは、思い込みと勘違い、さらに言えば、上から目線の思い上がり、傲慢さが潜んでいないでしょうか。

 

その意味で、「善行」をなそうとする者は、謙虚でなければなりません。謙遜でなければなりません。

相手の気持ちなど、実際には理解できないのですから、相手にとっては「善行でない可能性」も大いにありうるのです。

 

むしろ「善行」であればあるほど、もしかすると的外れであるかも知れないという恐れを持って、相手の許可を求めるくらいの慎重さが必要なのかも知れません。

 

うつを通して、しみじみと、善行の奥深さと、謙遜という生き方について、考えさせられました。

 

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。ピリピ2:3

 

神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。ヤコブ4:6