いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

似て非なる信仰

求めなさい。そうすれば与えられます。マタイ7:7

 

あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。マタイ21:22

 

キリストにあるひとりの姉妹に、初めての子どもが与えられました。

まだ1歳にも満たない幼子です。

姉妹は日々、初めての子育てに四苦八苦しておられることと思います。

そして日曜日に、姉妹が礼拝に集うには、当然、幼子を連れて行かなければなりません。

幼子と幼子のために必要な道具一式を抱えて礼拝に出席することは、それだけでも、とてもエネルギーのいることでしょう。

 

しかし、本当に大変なのは、ようやくたどり着いた礼拝でのことなのです。

幼子は所構わず、様々な欲求から大きな声で泣き叫びます。静まり返った神聖な場では、いたたまれずに泣き出したいのは、お母さん姉妹の方でしょう。

 

そんな彼女のもとへ、ひとりの年配の姉妹が駆けつけて、こんな助言をされたそうです。

「私は何人もの子を育てて来たけれど、礼拝中に子どもを泣かせたことは一度もありません。そのために、ものすごく祈りました。あなたも真剣に祈ってください。」

 

子育て中の姉妹方に対する年配の姉妹方の視線は、厳しいものがあるようで、これまでもしばしば聞かされてきました。

中には、それが原因で離れてしまった姉妹もおられるようです。

 

さて、くだんの姉妹の助言について、考えてみました。

礼拝中に子どもが泣かないように、必死に祈られた姉妹の祈りは、素晴らしいものだと思います。

子どもを持たない私は、礼拝に集う子どもたちが静かにしていられるように祈ろうなどと考えたこともなく、反省させられました。

 

しかし、姉妹の助言にどうにもしっくり来ないのは、「祈りに応えてくださった主様に栄光が帰されていない」からなのだと感じました。

祈られた姉妹の信仰は立派なのですが、ほめたたえられるのは、「姉妹の信仰」ではなく、「憐れんでくださった主様」に他なりません。

人がどんな立派な行いをしたとしても、どれほど熱心に祈ったとしても、最後に主様の御名がほめたたえられなければ、誰も幸いにはならないのではないでしょうか。

 

確かに、信じて祈れば何でも与えられると聖書には書かれています。

しかし、神様は人間のしもべではありません。人が祈ったからと言って、神様は与えなければならないという義務を負いません。

パウロは自分に与えられたとげのために三度も祈りましたが、とげは取り去られませんでした。

 

すべては神様のみこころによるのであり、神様の憐れみによるのです。

 

祈ることは幸いなことです。信仰がなければ祈ることはできません。それゆえ、「私は祈りました。」という人を、人は立派な信仰者だと思うでしょう。

 

しかし、もし人が「私が祈ったから、与えられた。」と思うなら、それはどこかで信仰がずれてしまっているのではないでしょうか。

信仰に立っているようで、実は信仰ではないもの、もっと言えば福音ではないもの「祈りという行いによる救い」に、なっていないでしょうか。

 

信仰年数が長くなるほど、熱心に働いていたり、祈っていたりするほど、自分の信仰に自信を持ってしまいがちで、自分のずれに気付かなくなってしまうのかも知れません。

 

しみじみと、我が身を振り返ってみなければなりません。

知らず知らずのうちに、ずれていく信仰。独り善がりの信仰。

絶えず聖書の御言葉を読み、へりくだって、謙遜に耳を傾けることの大切さを学ばされました。

 

立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。Iコリント10:12

 

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。IIコリント13:5