いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

死に至るまでのへりくだり

今年3月末、無期雇用転換ルールの施行を目前に、5年弱働いた勤め先を雇い止めされました。

もはや年齢的にも、事務職は狭き門で、止む無く、経験のない看護助手の仕事に就きました。

 

しかし、重症心身障害者病棟の仕事は、私の想像を超えた過酷な労働で、持病の甲状腺機能亢進症を悪化させて、わずか1週間で退職するという無様な結末となりました。職場の方々には、ご迷惑をおかけして、申し訳ない限りでした。

 

つくづくと何の取り柄もない我が身を自覚して、再び求職活動を始め、ようやく事務職に採用してくださる職場に恵まれました。

しかし、それはまた新しい訓練、試練の始まりでもありました。

 

仕事を失う、退職する、ということは、すべてがゼロになるということなのだと、身にしみて感じています。

それまで培ってきた経験、築き上げてきた実績、人間関係、給与水準、有給休暇日数に至るまで、オールクリアされてしまうのです。

 

長年働き続けている職場では、何も語らずとも、周囲はその人のキャリアを理解して、敬意を払って接します。

しかし、新しい職場では、すべてゼロから積み上げていかなければなりません。

再就職する度に、幾たびもゼロから始めなければならないのです。

 

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。黙示録2:10

 

「雇い止め」とは、職場における死刑宣告であり、ある意味、殺されるということです。

死に至るまで、神に対して忠実であろうと思うとき、何か歯をくいしばるようなイメージを持ちます。

 

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。ピリピ2:6-8

 

しかし、ここにキリストの死に至るまでの忠実がありました。

キリストは、ご自分を無にされました。

つまり、御自身をゼロに、オールクリアされたのです。

御自身の栄光も、立場も、実績も、すべてゼロにして、仕える者のように、しもべのように、卑しい者のように、振舞われました。

何という畏れ多いへりくだりでしょうか。

そして、遂に十字架の死に至るまで、へりくだり尽くされました。

 

彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、マタイ26:67

 

主イエス様は、十字架の場面で、人々からあざけられ、ののしられ、叩かれ、打たれ、つばきをかけられました。

 

しかしそこには、歯のくいしばりを感じ取ることができません。

死に至るまでの忠実とは、死に至るまでのへりくだりであり、死に至るまでの従順なのでしょう。

 

主イエス様が見ておられたのは、その先、十字架の死の先にある素晴らしいもの、父なる神様とその御救いだったのでしょう。

その御救いとは、我が身の救いではなく、多くの信じる人々に分け与えられる御救いです。

 

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。マタイ20:28

 

主様が見上げておられたものをともに仰ぎ、死に至るまでのへりくだりの道、死に至るまでの従順の道を、ちいさなしもべが静かに歩んで行くことができますように。