わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。ヨハネ10:17
このみことばは、文字通りに取ると、実に奇妙であることに、ふと気付かされました。
つまり、「捨てるもの=自分のいのち」であり、「再び得るもの=自分のいのち」となってしまうからです。
もし、捨てたものと同じものを、再び得るなら、その行為は、何の益でもなく、無意味です。
しかも、再び得ることが、例え確実であったとしても、捨てるものが、「自分のいのち」というのですから、穏やかではありません。
そんなマッチポンプのような無駄なことのために、何故「自分のいのち」を捨てなければならないのでしょうか。
こう考えてくると、日本語の文字面は、同じ「自分のいのち」であっても、捨てるものと、再び得るものは、同じものではない、ということが明らかになってきます。
そうです。
捨てるものは、人となられたキリスト・イエスの唯一無二のいのちです。
しかし、再び得るものは、多くのイエスのいのちなのです。
キリスト・イエスは、私たちの罪のために死なれ、葬られ、よみがえられました。
この福音を信じる私たちは、キリストとともに死に、葬られ、今、キリストのいのちにあずかっています。
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。IIコリント4:10-11
捨てられた尊い一つのいのちは、今、多くの分け与えられるいのちとなりました。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし、死ねば、豊かな実を結びます。ヨハネ12:24
私たちは、どうでしょうか。
自分のいのち、罪人のいのちに固執すべきでしょうか。
それとも、多くのイエスのいのちを見ることを喜ぶでしょうか。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬が確実にあるのです。