私は愚か者なので、残念ながら、神様のみこころを理解することができません。
かつて神様のみこころと、3年半以上、確信していたことは、無残にもついえました。
かくして、私にとって、神様との交わりは、冷え冷えとした空疎なものに変わりました。
神様のみこころを理解できないというのは、クリスチャンにとって、致命的なことだと感じました。
3年半もの間、私は、もし私が神様のみこころを履き違えているなら、正してくださるように祈ってきました。
それなのになぜ…。
私には、未だに、このことの意味が理解できません。
ただ、私は神様のみこころを理解できないのだという厳然たる事実を学ぶことはできました。
もしかすると、正にそれこそが神様の目的だったのかも知れないと思います。
長い不信仰の果てに、私はキリストとともに過去に死んだ者として、もはや過去を振り返らないことにしました。
そして、ただ神様のみこころがなりますようにと、祈ることにしました。
この祈りにより、私はようやく神様のみこころを知ることができるのです。
今日、私に何が起こったとしても、それこそが神様のみこころだと確信できるのです。
私にとって、喜ばしいことも、そうでないことでも、神様のみこころと確信できるとしたら、何よりも幸いなことです。
私は神様のみこころを理解できなくとも、神様のみこころの中にいる平安の中を歩みましょう。