かつて、私がまだ聖書に触れていなかった頃、観光で神社仏閣を訪れれば、当然のように、手を合わせて、願い事をしていました。
ある時、私に「何を願ったのか?」と尋ねる方があり、「みんなが幸せになりますように」と願ったと答えると、目を丸くして、驚かれました。
何か私が素晴らしい人格者かのように誤解しておられるので、解説しました。
「例えば、私が某大学に合格しますようにと願ったとしても、果たしてその大学に行くことが私にとって幸せなことであるかどうかはわからない。それゆえ、幸せになりますようにと願うことは、個別具体的な願い事をするより、はるかに合理的である。また、私が幸せになったとしても、私の周りに不幸な人がいたら、私も幸せな気分にはなれない。したがって、すべての人が幸せになりますようにと願うことが、最も合理的である。」
それから何年も経て、私は生けるまことの神様に、イエス・キリストを通して、祈り求めることができろようになりました。
私たちは、どんなことでも、神様に願うことができます。
しかし、今、改めて、かつての自分のことばを思い起こします。
あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。マルコ10:38
私たちは、自分が何もわかっていない愚か者であることを真に知らなければなりません。
神様の前にへりくだり、最善をなしてくださる神様のみこころがなりますように、祈りたいと思います。
そして、その神様のみこころが成し遂げられるために、自分のからだを捧げていくことができますように。
アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。マルコ14:36