聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
IIテモテ3:16-17
確かに神様は実に日常的な、あらゆる出来事を通して、私たちを矯正しようとしてくだいます。
矯正というものは、曲がった私たちをまさに「強制」的に、真っ直ぐに変えていく作業であり、そこに至るまでは、非常な苦痛を伴います。
そして、さらに「義の訓練」。
ただしく生きる者となるための訓練ということでしょうか。
これもまた、厳しい訓練です。
善人ばかりの世界で、ただしく生きることは、たやすいことかも知れませんが、私と同じように身勝手な罪人ばかりの世界で、ただしく生きるというのは、一体、どのようなことでしょうか。
現実に照らせば、照らすほど、途方に暮れます。
しかし、それは、神に属する者が、良い働きをするのに、ふさわしい者となるために、必要な訓練なのでした。
良い働きをするためには、十分に整えられた者とならなければなりません。
ただ宣べ伝えるのでは、足りないのです。
私たちを地獄のさばきからお救いくださった主イエス様のために、私たちが、神様の矯正と義の訓練に、へりくだって、正しく与ることができますように。