いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

罪人の「理屈」と「はかりごと」からの解放

 

 「人間とは、理屈を言う被造物である」

 

 神である主が、天地を創造された時、様々な生き物を造られました。

 しかし、理屈を言う生き物は、人間だけです。

 

 神である主は人に命じて仰せられた。

「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」創世記2:16-17

 

 最初の人アダムは、神のみことばに従順に生きて、幸せでした。

 彼は、素直に神のみことばを信じ、受け入れ、守りました。

 

 しかし、サタンである蛇は、人間に「理屈」を持ち込みました。

 

 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」創世記3:1-3

 

 サタンの巧妙な誘導尋問に、女はつい「死ぬといけないから」食べてはいけないのだと口にしました。

 

 そのとき、女がこれまで善悪の知識の実を食べなかったのは、実は、神のみことばを信じる「信仰」によっていたのではなく、「死ぬといけない」という「理屈」に基づいていたことがあからさまにされました。

  

 隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。 マルコ4:22

 

 そして、「蛇に死なないと言われたから」食べました。

 

 「信仰」は言います。「これは、神のみことばだから」。

 「理屈」は言います。「こちらの方が、理屈にあっていると私は思うから」。

 

 「信仰」は、神から出ています。

 「理屈」は、サタンから、人間から出てきます。

 「理屈」とは、人間の都合です。

 「理屈」とは、神を退ける、人間の奢りです。

  

 神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。 伝道者の書7:29

 

 神のみことばは言います。

 

 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。ガラテヤ5:14

 

 「理屈」は言います。

 「なぜこの人を愛さなければならないのですか。この人は私に対して、このようなことをしてきた人です。」

 「このような人に親切にすることは、この人をつけあがらせるばかりで、かえって良くないのではないですか。」

 

 クリスチャンである私は、内側に多くの「理屈」を抱えたまま、「しかし、神の子どもであるならば、神のみことばに従うべきだ」という「理屈」に従って、ときに歯を食いしばって人に親切な振る舞いをします。

 

 これは、「宗教」行為に過ぎません。

 「信仰」に基づく、行いではありません。

 本質的には、「神のみことば」に従っているのではなく、「理屈」に従っているに過ぎません。

 

 私は思います。

 「宗教」とは、人間の「理屈」に基づく、いっさいの考え、振る舞いである、と。

 

 「宗教」は、人の「理屈」から出てきます。

 「宗教」とは、「私の義への執着」です。

 「信仰」は、人の「心(霊)」から出ています。

 「信仰」とは、すなわち「神に対する愛」です。

 

 その行いが、「宗教」に基づいているのか、「信仰」すなわち「愛」に基づいているのか、その違いは、外見上、必ずしも明確ではありません。

 しかし、神様はすべてをご存知です。

 私たちは、自分の行いをよくよく吟味しなければなりません。

 

 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。

 その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。Ⅰコリント3:12-13

 

  私はふと、かつて不本意ながら遊女とさせられた女たちが、口にしていた言葉を思い出しました。

 

 「身体は売っても、心は売らない。」

 

 私の「宗教行為としての善行」は、まさにこの通りでした。

 どんなに善い行いを積み重ねていても、決して「心は与えない」という「自由」がまだ私にはあったのです。

 つくづく、人の心を支配することがいかに容易ではないかを考えさせられました。

 それゆえ、「人の心」とは、もっとも価値あるものだったのです。

 

 わが子よ。汝の心を我にあたへ 汝の目にわが途を楽しめ。箴言23:26(文語訳)

 

  神に心を捧げるのでなければ、何の良いところがあるでしょう。

 

 キリストは、「信仰」すなわち「神への愛」よりも、「宗教行為」すなわち「私の義への執着」に熱心であったパリサイ人や律法学者たちを、偽善者たちと鋭く断罪しました。

  人間から出てくるもの、すなわち罪人から出てくるものは、「理屈」と「はかりごと」だけです。

 

  幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。詩編1:1

 

 その善行は、私の理屈に基づくはかりごとでしょうか。それとも、神とキリストと隣人に対する愛でしょうか。

 私は心底から、理屈とはかりごとから贖い出されたいと思います。

 

 ただ神とキリストを見上げ、愛して、キリストの行われるところに、子どものように単純についていきたいと切実に願っています。

 

 キリストは、「信仰」すなわち「神に対する愛」を教え、「信仰」を与えるために、この世に来られました。

  このキリストの愛の中に、信仰の中に、愚かなしもべをとどまらせてくださいますように。

 

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。ヨハネ15:9