いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

愛のない行ない

 
 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。ヤコブ2:20

 

 確かに、「行ないのない信仰」はむなしいと思います。

 しかし、私は今、「愛のない行ない」のむなしさを味わっています。

 まさしくそれが、「律法の行ない(ローマ3:28、ガラテヤ2:16、3:10)」であり、「からだの行ない(ローマ8:13)」また「肉の行ない(ガラテヤ5:19)」、「死んだ行ない(へブル6:1、9:14)」なのでしょう。

 

 「行ない」は、確かに大切です。

 しかし、「行ない」の基礎は、さらに大切であることを、改めて教えられています。

 

 愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、エペソ3:17

  

 私たちクリスチャンのすべての基礎は「愛」でなければなりません。

 

 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。Ⅰコリント13:1-3

 

 「完全な信仰」があっても、愛が基礎でないなら、何の値打ちもありません。


 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。ヤコブ2:19

 

 それは「悪霊の信仰」と変わらないということでしょう。

 すべての基礎は愛でなければなりません。

 図式にするなら、「愛」→「信仰」→「行ない」です。

 しかし、私はしばしば、「信仰」→「理屈」→「損得勘定」→「行ない」となります。

 

 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。Ⅰコリント13:1-3

 

  まさしくこの通りです。

 この人も、信仰上の理屈に基づいて、精一杯の行ないをしたのだと思います。

 しかし、「愛」が基礎にない「行ない」には、必ず、「損得勘定」「打算」があります。

 「持っている物を全部与えても」、「殉教しても」、十分にペイする見返りがあるということです。それは、人の賞賛や、名誉、名声かもしれません。あるいは、「天の宝」かもしれませんが、もし「そろばんずくの行ない」なら、天に宝は蓄えられないでしょう。

 

 マザー・テレサは、「痛みのない献金は受け取らない」という趣旨のことを言われていたことを思い出しました。

 本当の愛は、必ず犠牲を伴う、赤字勘定になる、ということなのでしょう。

 

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。Ⅰヨハネ4:10

  

 神様が私たちに与えてくださった愛は、まったくの赤字勘定でした。ここに愛があるのです。

 

 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。ガラテヤ5:6

 

  「愛によって働く信仰」、「愛によって働く行ない」、すべての基礎は愛でなければなりません。

 

 愛は神から出ているのです。Ⅰヨハネ4:7

 

 ああ、主よ。心の狭い、自己愛ばかりのかたくななしもべを憐れんでください。

 キリストを通して、あなたの愛を豊かに注ぎ、もう一度、あなたの愛によって満たしてください。

 あなたの愛をすべての基礎として、愚かなしもべがまったき道を歩むことができますように。