人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。箴言14:12
このみことばは、信仰を持つまでの自分の人生を振り返った時、つくづくうなずかざるを得ないみことばです。
「人の目にはまっすぐに見える道」とは、人間が自分の最大限の知恵をもって、まっすぐな道と判断した道ではないかと思います。
私は幾度もその道で挫折を経験しました。確かにその道の終わりは「死」でした。
そして今、キリストを主として歩み始めた私の目に、「まっすぐに見える道」があります。
それは、やはり「死の道」です。
キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。ローマ6:3-4
私たちクリスチャンは、キリストともに死んだ者です。
罪に対して死に、自我に対して死んだ者です。
あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ローマ6:11
私はカルバリに行かなければならないことを知っています。
主イエス様は私たちの罪のために、カルバリで血を流してくださいました。
私たちも人の罪のために、やはりカルバリで血を流さなければなりません。
その機会は、毎日のようにやってきます。
そして、いつもそこで血を流すことを拒む自分がいることを見出します。
ある時、カルバリの前に、ゲッセマネの園があったことを思い出しました。
そこは、主イエス様のいつもの祈りの場であったことと思います。
エデンにも園がありました。
「園」はいつも、神様との親しい交わりの場でした。
私はカルバリではなく、ゲッセマネに行かなければなりませんでした。
私が行くべき場所は、ゲッセマネでした。
どうしようもなく罪深い自分を、みことばに従い切れない自分を、深い悲しみをもって告白し、神様に変えていただきたいと切に願います。
私が行くことができるのは、ゲッセマネまでです。
カルバリは、自分で行くべき場所ではなく、ゲッセマネの後に、主イエス様に連れて行っていただける恵みの場なのでしょう。
カルバリではなく、ゲッセマネに、行きましょう。
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。マタイ5:44-45