一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 ヨハネ12:24
罪人の私が、キリストの犠牲によって、父なる神様の御前に、罪赦されました。感謝します。
そればかりか、御子イエス様のうちにあって、父なる神様との愛の交わりにあずかることまで許されました。感謝します。
そして、訪れの日に、天にある麗しい御父の御国に迎え入れられる幸いが約束されました。感謝します。
御父と御子に感謝することは、良いことです。御救いを受けた私たちクリスチャンは当然、そのようであるべきです。
しかし私は、この頃、こうした感謝の祈りを聞いていると、胸が痛む思いになります。
それは、その祈りが、とても自己中心的な、ご利益宗教のように感じられてしまうからです。
「私が」罪赦されて、感謝します。
「私が」天の御国に入れられて、感謝します。
御父と御子に、感謝しているのだけれど、「私」が「主」となっているように感じるのです。
結局、「私の利益」にしか興味がないかのように感じてしまうのです。
御父を愛しているのでしょうか。
それとも、「私」を愛しているのでしょうか。
私はときどき思います。
まったく聖書的ではないのですが、「仮に、天の御国に入れなくなったとしたら」私は御父を愛さなくなるのでしょうか。御父をほめたたえなくなるのでしょうか。
私は赦されるべきではない罪人です。
御父が私を赦されなかったとしても、私は天地を創造され、ご支配しておられる御父を愛し、ほめたたえるべきではないでしょうか。
「私」の立場や取り扱いが、たとえどうであったにせよ、「私」とはまったく無関係に、御父と御子は、その大能のみわざのゆえに、絶えずほめたたえられるべきお方です。
私は、ご利益信仰から抜け出したいのです。
私が地上で恵みを受けることによって、御父と御子をほめたたえるよりは、むしろ地上で苦しみを受けながら、なおも御父と御子をほめたたえ、御父と御子に栄光を帰する道を選びたいのです。
それが本当の信仰ではないかと思うからです。
できるとか、できないとかではなく、それが本当ではないかという思いが、いつも湧き上がってくるのです。
御子は、我らのために、すべてを失ってくださいました。
信仰とは、愛です。
愛するお方への真実であり、忠誠です。
主様が私たちを、招いてくださいますように。
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 ヨハネ12:24