いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

神の国に入るパラドックス

 

 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。ルカ13:24

 

 厳しい言葉です。「神の国に入る」には、努力が必要です。

 

 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。 マルコ9:47

 

 これはさらに厳しい言葉です。「神の国に入る」には、目をえぐり出す覚悟まで求められます。

 

 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

  イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」

 彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」

 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」マタイ19:16-24

 

 主イエス様はこの青年に、いのちに入る、すなわち、「神の国に入る」には、全財産を売り払って貧しい者に与えなければならないと、言われたかのようです。

 

 「神の国に入る」ことは、実に厳しく、すさまじく困難な道です。

 

 「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」使徒14:22

 

 使徒パウロも、このように語りました。

 「神の国に入る」ことは、難行の道です。

 

 しかしここに、福音の道があります。

 

 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。ルカ18:17

 

 努力によって、「神の国に入る」のではなく、子どものように「神の国を受け入れる」とき、結果として「神の国に入れられる」のです。

 

 これは、実にユニークな神のパラドックスではないでしょうか。

 

  「神の国」は、本質的に「入るところ」ではなく、「入れていただくところ」です。

 「神の国」が、神の御住まいだとすれば、当然のことですね。

 

 神は、私たち罪人を、神の国に招いておられます。あらゆる手を尽くして、持ち物すべてを失っても、そればかりか体の一部を失ってでも、神の国に入りなさいと。

 確かに、神の国はそれほどの犠牲を払ってでも、入るべき価値があります。

 

 そして愚かで傲慢な人間たちは、あらゆる努力をし始めます。

 

 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。ルカ16:16

 

 しかし、これは神のパラドックスです。

 私たちは一日も早く、この愚かしい難行の道を捨てなければなりません。

 私たちは努力によって「神の国に入る」ことは決してありません。

 

 子どものように素直に「神の国を受け入れる」、すなわち、「神のみことば(聖書)を受け入れる」とき、私たちはすでに「神の国に入っている」のです。

 

 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 ヨハネ1:11-12

 

 「この方を受け入れた人々」は、神の子どもとされ、神の国に入れられます。

 「この方を受け入れなかった人々」は、神の国に入ることはできませんでした。

 

 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。ヨハネ3:11

 

 この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。ヨハネ3:32

 

 わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ヨハネ5:43

 

 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。ヨハネ12:48

 

 主イエス様は何度も、ご自身とそのみことばを「受け入れない」かたくなな人々をお責めになりました。

 

 信仰とは、「神のみことばを受け入れる」ことです。

 私たちクリスチャンは、「神は真実であるということに確認の印を押し(ヨハネ3:33)」、信仰生活をスタートしました。

 

 私たちは、どこまでも「神のみことばを受け入れ続ける」ときに、神の国に入っているのです。

 神のみことばだけでなく、神が私たちに与え給うた環境、境遇をも、「受け入れ続ける」とき、私たちは神の国のただ中にいます。

 

 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」へブル3:7-11

 

 これは厳粛な警告です。

 イスラエルの民は、「わたしの道」すなわち「神の道」を悟りませんでした。

 「あなたがたは、世にあっては患難があります(ヨハネ16:33)」と、主イエス様は予告されました。

 「神の道」は、患難の道です。しかし、そのみことばと、与えられた荒野を、神の賜物として、子どものように素直に「受け入れる」ならば、「安息に入る」のです。

 

 努力して、「神の安息に入る」ことはできません。

 すべてを「受け入れる」とき、私たちはただちに「神の国に入り」、「神の安息に入る」のです。

 

 信じた私たちは安息に入るのです。へブル4:3