いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

キリストの道

 

 私の地域では、毎週、火曜日と金曜日は、燃えるごみの日です。

 それで、前日の夜は、台所の排水口に溜まったごみを取り出し、排水口周辺を徹底的に磨き上げます。

 

 排水口のごみ受けかごには、調理中に落としてしまった野菜くずや、家族全員の食器に残った小さな生ごみなどが溜まり、わずか数日間でも、排水口全体にねっとりとしたヘドロのような垢が湧いてきます。

 実に触るのもおぞましいような状態です。

 

 私は、この排水口を見るたびに、主イエス様のことを重ね合わせて思います。

 

 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

  まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

  彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。イザヤ53:2-7

 

   排水口はまさに、私たちのおぞましい罪を負い、私たちが負うべき十字架をひとり黙々と担ってくださった主イエス様のようです。 

 

 人目に隠れて、愚痴の一つもこぼさずに、人の出したごみを引き受け、それでも人から嫌われる、辛い役割を担っていてくれる排水口に、ひたすら頭の下がる思いがします。

 

  そして、排水口にお詫びと感謝の気持ちを込めながら、一生懸命に磨き上げます。

 

  そして、キリストの道を思います。

 私たちが歩むべき道は、このキリストの道なのだと。

 

   罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。

 けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。

 キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 Ⅰペテロ2:20-21