主はサタンに仰せられた。
「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
サタンは主に答えて言った。
「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」 ヨブ1:8-11
ヨブ記のテーマのひとつは、「人はいたずらに神を畏れるか」であると学んでくださった兄弟がいました。
「いたずらに」とは、「無駄に」という意味です。
つまり、「人は何の御利益もないのに、神を畏れるだろうか」というサタンの問いです。
「御利益が取り去られれば、ヨブはきっと神をのろうに違いない。」と、サタンは挑戦しました。
しかしヨブは、財産が奪われても、子どもたちが死に渡されても、神に愚痴をこぼしませんでした。
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」 ヨブ1:21
そしてさらに、全身を悪性の腫物におおわれても、ヨブはなお罪を犯すようなことは口にしませんでした。
私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」 ヨブ2:10
さて、私たちクリスチャンは、どうでしょうか。
私は3年以上前、神様からひとつの約束をいただきました。
それは、私にとって、考えられないような大きな祝福の約束でした。
私は受けるに値しない者に注がれる主様の大いなる愛に圧倒され、一晩、泣き明かしました。
私はこのあわれみ深く、恵み深い主様の愛に感動し、いのちの日の限り、主様に全面的に従い、どこまでもお仕えしようと心に定めました。
しかしその約束は、霊的な判断力のある兄弟姉妹方によって、ことごとく否定されてきました。
私は幾度も、主様に涙ながらに問いました。「私の勘違いなら、正しく悔い改めさせてください。」と。
けれどもその度、私は主様から信仰によって前進するように励まされ続けました。
私は人の評価に拠り頼むのではなく、ただ主様にのみ拠り頼んで歩むということを学びました。
そうして3年の月日が流れました。
そして、ついにその約束は破綻しました。
私が信じ続けてきた約束は、客観的な事実によって、否定されたのです。
私はただ呆然としています。
そもそも受けるに値しない約束だったのですから、それが消滅しても何の不平もありません。
愚かな私が、主様の御声を聞きとれなかったとしても、驚くほどのことはありません。
けれども、幾度も主様に確認し、「私の勘違いなら、正しく悔い改めさせてください。」と祈り続けてきたにも関わらず、それでもわからなかったのです。
いったい私は、今までに主様の御声を聞いたことなど一度でもあったのでしょうか。
いったい私の祈りは、主様に届いているのでしょうか。
いったい私は、何を悔い改めたらよいのでしょうか。
それは気の遠くなるような、血の気の引くような無力感です。
私の愚かさを教え諭すためには、3年もの歳月をかける必要があったのでしょうか。
私には、祈ることさえ、空しいことのように感じられてきました。
その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。 ヨブ3:1
私は改めて、ヨブ記を読み返しています。
ヨブは、どこまでも主様を畏れ、主様に愚痴をこぼさず、罪をも犯しませんでした。
しかし、友人たちから、隠れた罪があるのではないかと責められとき、初めて「自分の生まれた日」をのろいました。
ヨブはなおも、神をのろうのではなく、自分の生まれた日をのろいました。
ヨブは、悪性の腫物について、愚痴をこぼしませんでした。
サタンからの悪性の腫物は、結局のところ、ヨブを打ち負かすことはできなかったのです。
友人たちの非難がましい説教は、ヨブを苦しめましたが、それすら、ヨブの苦しみの本質的な原因ではありませんでした。
私を罪ある者となさらないように。なぜ私と争われるかを、知らせてください。 ヨブ10:2
私は、神を呼び、神が答えてくださった者であるのに、私は自分の友の物笑いとなっている。 ヨブ12:4
私の不義と罪とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせてください。なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵とみなされるのですか。 ヨブ13:23-24
ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。
私は御前に訴えを並べたて、ことばの限り討論したい。
私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。 ヨブ23:3-5
ヨブは真実に主様を畏れ、主様を信頼し、主様を愛していました。
神のしもべヨブを最も苦しめたことは、「神の御声を聞くことができない」ことだったのではないでしょうか。
私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。 ヨブ6:9-10
それゆえヨブは、「神のおぼしめし」を聞かせてくださるのならば、いのちを断たれたとしても、「慰めを得、こおどりして喜ぶ」と言ったのです。
神のしもべヨブは、神に「死ね」と言われたなら、喜んで神のみこころに従って、死んだことでしょう。
神のしもべヨブにとって、最大の試練は、「神の沈黙」でした。
主様を愛し、主様にどこまでも従い通したいと熱く願う者にとって、「神の沈黙」は、どれほど大きな苦しみでしょうか。
さて、マザーテレサの生前の書簡に、次のようなものがあったそうです。
「私はイエスを探すが見いだせず、イエスの声を求めるが、聞けない」
「自分の中の神は空虚だ」
「神は自分を望んでいない」
「自分は孤独であり、暗闇の中に生きている」
信仰のない人々は、これをもって「神の不在」が証明されたなどと、勝ち誇ったように書きたてました。
しかし私はむしろ、マザーテレサの真実なうめきの中に、深い慰めを覚えました。
その深い苦悩は、ヨブの苦悩と同じ種類のものであり、神のしもべに対する神の深遠なる訓練なのだと感じました。
長く、激しく、厳しい訓練の後、ついに神はヨブに対して口を開かれました。
主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。 ヨブ38:1-2
ああ、このときをヨブはどれほど待ち焦がれていたことでしょう。
それがどんなおことばであってもいい。怒鳴られようが、叱り飛ばされようが、構わない。
ただあなたの御声を聞きたいのです。
しもべは、主人のみこころがわからずに、どうして生きていかれましょう。
ヨブは神の御声を聞き、どれほど慰められたことでしょう。
しかし、神がヨブに語られたことは、「よく耐え忍んだ。」という賞賛でも、「かわいそうなヨブよ。」といった同情でもありませんでした。
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。 ヨブ38:4-6
神はヨブに対して、徹底的に問われました。
「あなたは、……知っているか。」
「あなたは、……できるか。」
神はヨブに、全能者と、被造物であり「ちりや灰に過ぎない人」が、いかに異なるものであるかを、具体的かつ懇切丁寧に示しつつ、叱責されました。
主はさらに、ヨブに答えて仰せられた。
非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。
ヨブは主に答えて言った。
ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。
一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。 ヨブ40:1-5
かつて、「私は自分の義を堅く保って、手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない。(ヨブ27:6)」と主張したヨブは、神によって、完膚なきまでに辱められました。
これまでの人生でヨブは、自分の持っている最も聖い信仰の中に自分を保っていたことでしょう。
ヨブは神ご自身から「神のしもべ」と呼ばれるほどに、神に忠実な信仰者でした。
しかし、神に忠実な人ほど、「私は正しく歩んできた」というひそかな自負が入り込みやすいのではないでしょうか。
かつてヨブは、そのような自分の心の奥底にある高ぶりについて、まったく無自覚でした。
しかし、数々の試練によってふるいにかけられたとき、ヨブは「自分の義」を主張しはじめました。
義人はいない。ひとりもいない。 ローマ3:10
ヨブが堅く握っていたのは、信仰によって与えられる「神の義」ではなく、自分の行ないに基づく「自分の義」でした。
主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。 ヨブ40:6-8
「すべてのことが、神から発し(ローマ11:36)」ています。
私たちの目には、実に怪訝で、不可解にしか思われないような出来事があったとしても、すべてのことが神から発している以上、すべてのことは正しい神のさばきです。
この神は、天地の支配者であられます。
神のさばきに対して、「自分の義」を主張することは、すなわち「神を不義」とすることでした。
だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。 ヨブ41:11
ヨブのうちにも、「私は神の御前に正しく歩んできた」という自負があり、「少なくとも、ここまでボロボロにされなければならないような罪は犯したつもりはない」と、憤慨を感じたのではないでしょうか。
けれども、人がどれほど誠実に歩もうと、それは人として当然のことであり、神が報いなければならないほどの大層なことではありません。
しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」 ルカ17:9-10
たとえ、人が正しく歩むことができたとしても、その志も、その力も、すべては、「天の下にあるものはみな、わたしのもの」と仰せになる神からの賜物です。
ヨブが罪を犯さないように、ヨブを支えてこられたのは、実に神ご自身でした。
ヨブは主に答えて言った。
あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。
どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。 ヨブ42:1-6
ヨブは、忠実な神のしもべでした。
しかしヨブは、さらに砕かれなければなりませんでした。
私たちは、本当に自分が無であることを知りません。悟りません。
未だに自分は、「何ごとかをなすことのできる何者か」であるかのように思い込んでいます。
それゆえ神は、私たちをとことん辱めなければなりません。
神は愛の御手をもって、私たちを辱めてくださいます。
神がそうされるのは、私たちが神の御前にまったく無であることに、まったきへりくだりをもって同意しなければ、神はお用いになることがおできにならないからなのでしょう。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。 ローマ8:3
ヨブは、神こそすべてであり、自分は無であることを真に教えられ、まったきへりくだりをもって、その事実を受け入れました。
そして、自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めました。
ヨブは、自分をさげすみましたが、自分にとってすべてとなってくださる神ご自身に安息し、神ご自身にのみ拠り頼み、神ご自身だけを礼拝する者へときよめられ、整えられました。
私の経験は、本当に愚かしいお話しであり、ヨブとはまったく異なります。
私には、未だにこの3年間の意味はわかりません。
ひとつだけわかることがあるとしたら、それは、「ここからが、本当の意味での信仰である」ということです。
神は、「私たちクリスチャンを祝福してくださるから」、神なのでしょうか。
私たちは、神が「私たちクリスチャンを祝福してくださるから」、主として従うのでしょうか。
祝福してくださる方を神とあがめ、主として従うことは、容易なことであり、ある意味、当然のことです。
それではもし、地上で何の祝福もないように感じたられたなら、もはや神でもなく、主でもなくなってしまうのでしょうか。
私たちの信仰は、ここでふるいにかけられます。
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 ルカ22:31
私は今、すべてを失ったと感じたその時から、真の信仰の歩みは始まるのではないかと思っています。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。 ローマ1:17
すべてを捨てて主様に従うことを志した私には、もはや他の道は残されていません。
私に主様の御声が聞こえなくとも、悟ることができなくとも、たとえそうであっても、ただ神のみことばである聖書に従い、主様にすがり、従っていきたいと願うばかりです。
人は、神である主をほめたたえるべき存在として造られました。
たとえ環境がどうであっても、たとえ状況がどうであっても、たとえ何がどうであっても、十字架をもってその愛をお示しくださった父なる神様と、そのみこころに完全に従ってくださった私たちの主イエス・キリストを見上げ、その麗しさをほめたたえる力が、なおも豊かに与え続けられますように。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 ルカ22:31-32