いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

純粋な主のみことばを、神のために語り出せ

 

 見よ。その日が来る。―神である主の御告げ。―その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。 アモス8:11

 

 「主のことばを聞くことのききん」とは、どのようなききんでしょうか。
 私は、長らく、何の疑問も持たず、この世の終わりに、政治権力によって聖書が焼き尽くされてしまう「焚書の時代」をイメージしていました。

 しかし、今すでに私たちはこの時代に生かされていることに気付かされました。
 このききんは、「主のことばを読むことのききん」ではなく、「主のことばを聞くことのききん」なのです。
 もちろんこの旧約聖書が書かれた当時には、印刷技術もなく、ほとんどの人にとって聖書は、「読むもの」ではなく、一部の教師から「聞くもの」だったので、単に「聞くことのききん」と書かれたに過ぎないのかも知れません。
 そうであっても、やはり「主のことばを聞くことのききん」なのです。

 確かに、世界中の主の御名の置かれた集まりで、また様々な場所で、聖書の福音伝道活動は行なわれているでしょう。
 けれども、そのメッセージは、本当にまっすぐで、純粋な「主のみことば」なのでしょうか。

 

 それゆえ、あざける者たち―エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。 イザヤ28:14

 主のことばにおののく者たちよ。主のことばを聞け。 イザヤ66:5

 

 ヤコブの家と、イスラエルの家のすべてのやからよ。主のことばを聞け。 エレミヤ2:4

 主を礼拝するために、この門にはいるすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け。 エレミヤ7:2

 わたしがエルサレムからバビロンへ送ったすべての捕囚の民よ。主のことばを聞け。 エレミヤ29:20

 今、ユダの残りの者よ、主のことばを聞け。 エレミヤ42:15

 

 それゆえ、遊女よ、主のことばを聞け。 エゼキエル16:35

 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。 エゼキエル34:7

 干からびた骨よ。主のことばを聞け。 エゼキエル37:4

 

 旧約の時代、多くの預言者たちは、いのちをかけて、「主のことばを聞け。」と絶叫しました。
 それは、人々の罪に対する主様からの厳しい警告でした。
 預言者たちは、主のみことばを、権威あるさばき主である神からのことばとして、オブラートや糖衣にくるむことなく、主様が語られるが如く、そのまま文字通りに語り出しました。

 

 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。 Ⅰテサロニケ2:4

 

 「主のことば」は、多くの場合、人を喜ばせず、人の反感と怒りを買いました。
 しかし私たちクリスチャンは、本質的に、「人のために語る」ではなく、「神のために語る」のです。

 私たちは、ちょうどルカ15章の放蕩息子のように、自分のあわれでみじめな状態を知り、それが自分の罪ゆえであったことを認め、悔い改めて、キリストの十字架の道を通って、父のみもとに帰りました。
 私たちには、なお家出したままの弟たち、妹たちがいます。
 私たちは彼らを捜し出し、父の家に連れ帰らなければなりません。
 それは、「放蕩息子たちのため」というよりも、むしろ「父のため」です。
 それはまた、「父のために」まったき犠牲を払われた「キリストのため」です。

 私たちは、決してこの焦点を見誤るべきではありません。
 「人間の喜びのために」神が存在されるのではなく、「神の喜びのために」私たち人が造られたのです。

 

 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。 Ⅰコリント8:6

 

 万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 コロサイ1:16

 

 この天地万物の主権者は、生ける唯一まことの神です。
 すべてのものは、神から出ています。すべてのことは、神から発しています。神によって成り、神に至るのです。
 ですから私たちは、「この神のために」、「主のみことば」を語るのです。

 

 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。 ルカ1:17

 

 しかし、私自身は、救われる前、「人間の幸福のために」犠牲を払われたキリストの話ばかり聞かされてきました。
 私は極めて自己中心的な罪人なので、語られるメッセージを、「自分の聞きたいように、勝手に翻訳して聞いていた」節もあるかも知れません。

 「私の幸福のために」キリストが存在しているかのような、「人間中心のメッセージ」を聞き続けて信仰生活をスタートしてしまった私は、言うまでもなく、すぐにつまづきました。
 「私にとって」都合の悪いことが次々と起こり、神に対する不信感に満ち、4年半ものにがにがしい、暗黒の不信仰生活を送ることになりました。

 

 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。
 「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」 民数記11:4-6

 

 私は主様のあわれみによって、エジプトを出ました。しかし、そこは荒野に過ぎませんでした。「私を喜ばせる食物」は何もありませんでした。
 確かに、マナはあったのです。神の与えてくださる食物「マナ」は、聖書のみことばです。
 マナは、おのおのが自分で集めなければならない食料でした。しかし、私は集めませんでした。食料は手の届く場所にいつもあったのですから、「みことばを読むことのききん」ではありませんでした。
 しぶしぶ集い続けていた集会で与えられる食物は、相変わらず、「私の幸福のために」キリストが…、という「人間中心のメッセージ」でした。それは、純粋な「主のことばを聞くことのききん」でした。

 「人間中心のメッセージ」は、決して肉を滅ぼすことがありません。
 それは、肉にとって痛みのない、心地よく、都合のよいメッセージです。
 私はこれを、「御利益強調型メッセージ」と、呼んでいます。「自己中心型メッセージ」と言っても良いかも知れません。

 確かに、「キリストが、私の罪のために死んでくださった」というのは、真理です。
 しかし、それは、真理のうちの一面に過ぎません。
 真理とは、立体的なものです。或いは、四次元的なものかも知れません。
 真理の全体像をはっきりと知っていくためには、自己中心の椅子にどっかりと座ったまま、ある一面ばかりを平面的に眺め続けるのではなく、自己中心の椅子から立ち上がり、様々な角度から見詰め直すことが必要です。
 そのためには、やはり自分自身で聖書全体をよく読むことが最も大切です。 

 

 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 ヨハネ17:3

 

 私たちは、さらに真理を様々な角度から、知り続けなければなりません。
 そうして私は、知らず知らずのうちに、あたかも神とキリストが「私のために」存在しているかのような、「神を私のしもべとする」御利益信仰に立っていたことに、ようやく気付かされました。

 私は今、こう思っています。
 キリストは、本質的に、「私のために」十字架にかかられたというより、「父なる神のために」十字架にかかられたのだと。
 すべては、「父なる神の喜びのため」です。
 父なる神様は、罪でドロドロの私たちをも愛され、私たちを洗い聖めてみもとに引き寄せようと、ご計画されました。
 キリストは、この父なる神の愛に触れ、「父なる神のために」、まったき献身を示されました。
 キリストにとって、すべての焦点、中心は、父なる神様です。
 父なる神様を愛するがゆえに、私たちをも愛されたのです。

 神は、「私たちのために」存在されるのではありません。
 神様が私たちに恵み深くあられるのは事実です。
 しかし、私たちは真理の別の面をも語り出さなければなりません。
 それは、王の王、主の主、義なる神、まったき聖であられる神、罪に対して厳粛なさばきを実行なさる神です。
 私たちは神を畏れることを真に学ばなければなりません。
 人は、神の権威の御前にひれ伏さなければなりません。

 

 しかし、終わりの時代にあって、この「御利益強調型メッセージ」は猛威をふるっています。
 先日、「こんな素晴らしい福音を、信じないともったいない。」というメッセージの締めくくりを聞いて、ひっくり返りそうになりました。

 「御利益強調型メッセージ」は、わかりやすく言うならば、こんな感じです。

 「あなたは今、問題を抱え、不安を持っています。いろいろな方法を試しましたがダメでした。方法が間違っていたために、大きな損失を被っているのです。最も賢明な方法を教えましょう。あなたの不足分を補う、キリストというサプリメントを服用すれば良いのです。キリストはあなたの罪とすべての問題を解決してくれます。」

 「家柄が良く、巨万の富を持つ資産家で、なおかつ優れた人格を兼ね備え、愛するあなたのためには、自分のいのちさえも惜しまない素晴らしい男性が、あなたにプロポーズしています。ぜひ結婚することをお勧めします。この方と結婚すれば、あなたは人生の勝ち組となるのです。」

 

 これらは人に、神の権威も、神の聖さも、神の義も、真に教えず、罪の忌まわしさも、さばきの恐ろしさも真に悟らせず、肉を温存したまま、自分の御利益のために神に導くという点で、非常に悪魔的です。
 確かに、ある程度の自分の罪を認め、頭ではイエス様が夫であり、主人だと、受け入れて、新生したかもしれません。
 しかし、私は自らの経験をもって証ししますが、これに騙されたクリスチャンの歩みは、本当に暗く、辛く、苦しいものになってしまいます。
 それゆえ私は、「人のために」、「人を喜ばせようとして」、およそ「人間に焦点を合わせて」、主のことばが語られることに恐怖を感じます。

 

 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。…

 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。 黙示録13:11-18

 

 聖書の「肉」ということばを、説明するには多くの表現があるでしょう。
 私は、ある解説書の中に、「肉とは、人間である」という極めてシンプルな表現を見つけ、大いに納得したことがあります。
 それは、「神」との相対概念としての「人間」です。

 

 まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。 Ⅰ歴代誌29:14

 

 「すべての源である神」に相対する概念としての「ちりにすぎない人間」です。
 神の家では、「神とキリスト」だけが表わされるべきであり、「人間」が表わされるべきではありません。
 しかし、黙示録で表現されるている獣の数字は、「人間」をさしています。

 終わりの時代は、「神の支配」ではなく、「人間の支配」が地上で窮まることでしょう。
 神の家で初めに起こるのは、「神」と「人間」との「混合」ではないでしょうか。
 主のみことばに、「人間の考え」、「人間の知恵」、「人間の賢さ」が入り混じって、ますます「人を喜ばせようとするメッセージ」が語られることでしょう。

 神の家で、「悪いことではない(から行なっても良い)」という「人間のことば」が聞かれるとき、私は恐怖を覚えます。
 私は尋ねたいのです。
 「悪いことではない」ということばは、「主のみこころである」ということと同じでしょうか。
 それは、「神から出たこと」でしょうか、それとも「人間から出たこと」でしょうか。

 


 その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。…

 あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。
 その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。 ダニエル2:32-43

 

 「一部が鉄、一部が粘土」、それらは「人間の種」によって混じり合います。
 私たちの「肉」が滅ぼされない限り、つまり「人間」にも有用なものがある、有益なものがあるなどと、寝ぼけたことを考えている限り、この「混合」は、なくならず、ますます混迷を深めていくことでしょう。

 私は神の家で、「福音について語る」ということばを聞くとき、ここは本当に神の家なのかと疑いたくなります。
 かつて読んだ本に書かれていたことばを、思い出します。
 「福音」を語ることと、「福音について」語ることは、まったく別のことである、と。

 確かにこれは言葉尻の問題ではなく、極めて本質的な問題です。
 それは、「私がAさんに、愛を語ること」と、「私がAさんに、愛について語ること」がまったく異なるのと同じです。

 「福音について」語るとき、その人は、福音のアウトライン、福音の仕組み、福音の構造を、人間の知恵を駆使して解説しています。
 それはちょうど、図解を用いて行なわれる、予備校の講義、カルチャースクールの教養講座のようです。
 図式化されたマニュアルチックな「福音についての講義」は、受験を経験した世代の人々に、非常にわかりやすいと大いに歓迎されています。それは、「人間が慣れ親しんだ」、「人間の方法」なので、「人間の知性」を喜ばせてくれます。
 それは、「肉」から発し、「肉に向かって、語りかけるメッセージ」です。これは「肉にある人」には、非常に理解しやすく、受け入れやすいものです。

 しかし、「福音」とは、「神」から発し、「死んでいる霊に向かって、語りかけるメッセージ」ではないでしょうか。
 それゆえ、「福音」は、生まれながらの人には、ほとんど理解できないかも知れません。「肉」は反抗し、「死んでいる霊」は無反応のままかもしれません。
 しかし、私たちは、「死んでいる霊」をたたき起こすために、「福音」を語るのです。

 

 眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。 エペソ5:14

 

 パウロは、「福音について」、人間的な知恵を用いて、人間の歓心を買おうとして、語るような真似はしませんでした。
 「福音について」語ったのではなく、「福音」そのものを語りました。

 


 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 ローマ1:16

 

 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。 Ⅰコリント2:1-5

 

 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。
 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。 ガラテヤ1:10-12

 

 パウロは、罪と、罪人が受けるべき厳粛な神のさばきとしての十字架を、恐れることなく、恥じることなく、「神のために」大胆に語りました。
 なぜなら、パウロは、「福音そのものの力」を信じていたからです。
 「福音」は、「信じるすべての人」にとって、「救いを得させる神の力」です。
 「信仰」は、「人間の知恵」によって支えられるべきではなく、「神の力」によって支えられなければなりません。

 私たちは今、「福音」を語っているでしょうか。それとも、ただ「福音について」語っているのでしょうか。

 「主のことばを聞くことのききん」があります。
 真に主のことばを知る主のしもべたちが、奮い立って、神のために、純粋な主のみことばを語り出すことができますように。

 

 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。 ピリピ1:9-11

 

 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。 コロサイ1:9-10