いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

あなたも行って、隣人になりなさい。

 

 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。 ピリピ2:13-14

 

 神である主は、私にひとつの志を与えてくださいました。

 

 遠方から来られた高齢の伝道者から、奥様が重い病でホスピスに入っておられるとお聞きしました。
 その奥様は、クリスチャンなので、激痛に苦しみながらも、たましいには神様の慰めがあり、平安があります。
 けれども、唯一まことの神様を知らない方々は、いったいどんな思いで、日々を過ごしておられるのでしょうか。

 

 私がそのことを、朝の公園で未信者の方にお話しすると、この近くにもホスピスがあると教えてくださいました。
 ネットで調べてみると、「話し相手ボランティア募集中」と記載されていました。
 私は、そのことについて祈りました。

 

 私は、ボランティア活動に参加することには、躊躇がありました。
 なぜなら、私は「キリスト伝道者」であり、「慈善活動家」ではないからです。
 善を行なうことが良いことであり、神様が喜ばれることであることは承知しています。
 しかし、「次善のものが、最善のものを損なう」ことがあるのです。
 サタンは、しばしば「好ましく見える次善のこと」にクリスチャンの全精力を浪費させ、「キリストを信じる信仰に導くという最善のこと」をおろそかにさせます。

 

 既存のボランティア活動に参加するなら、「いわゆる宗教活動」とみなされ、キリストを宣べ伝えることはできないでしょう。
 いったい私は、キリストを宣べ伝えられないことが予めわかっている場所に、わざわざ出向いて、「残りわずかな主様の時間」を費やすべきなのでしょうか。

 

 確信が与えられないまま、祈りつつ、「話し相手ボランティア」について、さらに調べていくと、より自宅に近い場所で、かつ仕事や家族とも多少関わりのある養護老人ホームでも、同様の募集がありました。
 こちらは、軽度の介護が必要な高齢者で、基本的に健康な方が住んでおられます。
 こちらの方が心理的にはハードルが低そうでした。

 

 それでも、本当に私はここに行くべきなのでしょうか。

 

 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。
 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」 マタイ8:8-9

 

 いつまでも神様のみこころに確信を持てない私でしたが、ある日、とうとう御霊の圧迫を感じ、その施設に向かいました。
 私は、「理屈によって生きる者」ではなく、単なる「神である主のしもべ」です。
 しもべは、理由を理解できても、できなくても、主人が「行け。」というなら、行くべきです。
 私には、主様の「行け。」の一言があれば、それで充分です。

 

 施設の方には、クリスチャンであることをお伝えし、「信仰をこちらから押し付けることはしませんが、もし聞かれれば、私の信じていることをお話しします。入所者の方から苦情が出たら、いつでもおっしゃってください。」とお話ししました。
 こうして私は、毎週月曜日の午後、わずか1時間ですが、老人ホームの食堂におられる30名ほどの70~90歳代のお兄様、お姉様方との交わりを持つようになりました。

 

 効率主義者の私は、4人掛けテーブルの空いた席に座って、3人のお姉様方と、まとめてお話をしたいのですが、一人の方の出身地を尋ねて、その地方の話題を広げようとすると、他の二人は、「なんだ、私の話ではないのか…。」とばかりに、話しの輪に加わろうとしないばかりか、離れて行ってしまう人さえいます。
 みな「私に注目して、私とだけ話して欲しい」のです。
 みな誰からも愛情を注がれていないかのように、本当にさみしい人たちなのです。
 こうして、次第に感情を喪失したかのように、無表情な人々が作られていきます。
 ここは「現代の姥捨て山」なのではないかとさえ感じます。

 

 ほとんどの方は、足腰が弱って、自力でトイレに行けなくなり、下の世話が大変になって入所されるようで、大半の方は車イスです。また、痴ほう症状が見られる方もおられるため、エレベーターにはロックがかかっています。
 ここにおられる方々は、もはや自力では、聖書の福音を聞きに行くことができないのです。

 

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」 Ⅰテモテ1:15

 

 主イエス様は、自力では父なる神様の御もとへ行くことのできない私たちのために、天から下って来てくださいました。
 多くのクリスチャンは、集会所の中で、未信者が聖書メッセージを聞きに来ることを待っていますが、この世には、行くことができない人々がおられるのだということを、私は学びました。

 

 わずか週一回の短い訪問では、顔も名前も覚えてもらうことは困難です。
 耳も遠くなり、単純なあいさつ以上の話しは、理解できない方もおられます。
 福音を語るには、あまりにも遅すぎる年齢だと痛感させられます。
 本当に何もできなくて、途方に暮れるばかりですが、主様が置いてくださった場所で、人生の先輩たちから、自分が学ぶべきことを学んでいきたいと願っています。

 

 彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」

 するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」 ルカ10:29-37

 

 私たちは、半殺しの目にあい倒れている人であり、良きサマリヤ人は主イエス様だと、よく学ばれます。
 しかし、すでに救われた私たちクリスチャンは、良きサマリヤ人である主イエス様に、ついて行かなければなりません。

 

 この律法の専門家は、「私の隣人とは、だれか。」と尋ねました。これは「状態」を問う言葉でした。
 しかし、主イエス様は、「だれが隣人になったか。」と問い返されました。これは「状態」ではなく、「意志を伴う行動」のことです。
 「隣人」とは、「ある」ものではなく、「なる」ものです。
 私が見知らぬ人に近づいて行って、「こんにちは」と声をかけたときに、私は「その人の隣人となる」のです。

 

 私は朝の公園で、「行って、隣人になる」ということを、学んでいます。
 「おはようございます」の関係から始めて1年半、今では多くの隣人ができました。
 それは本当にお互いにうれしいことです。
 もし人と出会っても、「こんにちは」と言わないのなら、それは、「あなたという人間は、いてもいなくても、どうでもいい人です。」、「私はあなたという人間の存在を認めていません。」という無言のメッセージにならないでしょうか。

 

 あまり大層なことを語る必要はありません。
 とにかく、「こんにちは」から、隣人になりましょう。
 愚直に、愛をもって、「こんにちは」と言い続けていれば、そのうちに自然と次の会話が始まります。

 

 まだ求めていない方に、性急に福音を語ることは、自己満足を得られるだけで、隣人の益にはならないようです。
 しかし、良き隣人になることを願い、祈りつつ、関係を築いていくなら、いつかその人の生き方に惹かれ、求める心が起こされるでしょう。

 

 私たちは、困難にぶつかる前からあれこれと思い煩う必要はありません。
 主様の招きの声を聞くなら、下手な作戦はすべて捨てて、ただちに立って、従って行きましょう。
 ときに嵐に出くわすとしても、主イエス様を私たちの心にお迎えするなら、嵐は静められるでしょう。
 「主の山の上には備え(創世記22:14)」が確かにあります。
 立って行かなければ、私たちは「よみがえられた主イエス様」を体験することはできません。
 良きサマリヤ人として、罪人であり、瀕死状態であった私たちに近づいてくださった、この主イエス様に、愚直について行きましょう。

 

 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
 彼らはすぐに網を捨てて従った。 マタイ4:19-20