いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「人」という神の福音伝道の方法

 

 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。
 「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。

 季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。

 そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。
 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。
 続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。

 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。 マルコ12:1-6

 

 父なる神様は、私たちに御自身の御思いを知らせるために、「人」をお用いになりました。
 父なる神様は、みこころを伝えるために、「人」をお遣わしになりました。

 

 あるときは、幻のうちに、或いは夢の中で、みこころをお伝えになりましたが、この方法が有効に機能するためには、聞く者の耳が開かれ、純粋に神御自身に向けられていなければなりません。

 

 そこで父なる神様は、神に背を向けている人々に、みこころを伝えるために、幾度も幾度も、目に見える「人」をお遣わしになりました。

 

 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。 ルカ4:43-44

 

 人の姿を取られた主イエス様は、神の国の福音を宣べ伝えるために、父なる神様から遣わされました。

 

 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。 ヨハネ17:18

 

 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。 マルコ16:15

 

 父なる神様の福音伝道の方法は、「人」です。
 父なる神様は、効率主義者ではありません。「不完全な人」をお用いになり、「人から人」という極めて地味で、効率の悪い方法をお取りになるのです。
 まことに神様のご計画は深遠です。

 

 戦後、来日された宣教師が、こんな主旨のことを語られたそうです。
 もし、トラクト一枚で、人が救われるのなら、私はわざわざ祖国から日本に移住する必要はない。
 福音は、生活を通して、生き方の中で、宣べ伝えられなければならない。

 

 確かに、私たちは、「永遠のいのち」を宣べ伝えているのです。「ものの考え方」や「解釈」、「理屈」を宣べ伝えているのではありません。
 この「いのち」は、この世のものではない「まったく新しいいのち」です。
 「いのち」とは、理屈ではなく、実際です。生き、動き、存在しているものです。
 私たちは、この「永遠のいのち」を、聖書のみことばとともに、私たちの生き方の実際を通して、宣べ伝えなければなりません。

 

 あまり適切なたとえではないかも知れませんが、私たちは「永遠のいのち」のセールスマンです。
 人々は、「永遠のいのち」をすでに入手した私たちのビフォー・アフターを観察しています。
 もし良い効果があると判断されるなら、「私にも永遠のいのちをください。」と言ってもらえるでしょう。
 しかし、何の効果も見られない、或いは、あんな風にはなりたくないと感じられるのであれば、逃げ出されてしまうでしょう。

 

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。 Ⅰテモテ1:15-16

 

 私たちは、「見本」として、この世に置かれています。
 驚くべきことに、この世の人々は、たとえキリストを信じておらずとも、「クリスチャンとは、きよい人である」といったイメージを持っています。

 

 私がキリストを信じて、バプテスマを受けようとするとき、未信者の父は、こう忠告しました。
 「すでに大人になったあなたが、どうしてもそうすると言うなら、止めはしない。しかし他人には、自分がクリスチャンであるとは決して言ってはならない。」
 私は意味がわからず、父に問うと、こう答えました。
 「クリスチャンだと知られてしまうと、悪いことができなくなるから。」

 

 ほとんど笑い話ですが、そのくらいに、この世では、「クリスチャンが聖潔であること」への期待が高いことを教えられました。
 期待が高いだけに、裏切られた時の失望は大きくなります。
 そして、その失望は、しばしば「あの人は…」ではなく、「クリスチャンは…」と語られることになります。

 

 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。 ローマ2:24

 

 インターネットで検索すれば、容易にわかるように、この世には、クリスチャンに失望している多くの人々がいます。
 彼らの失望の理由は、要約すれば、「クリスチャンは高慢である」ということに尽きるのではないかと、私は感じました。

 

 まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 マタイ18:3-4

 

 私たちが、知らず知らずのうちに、「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち(ルカ18:9)」のような罪から守られますように。

 

 さて私は今、「福音を福音として語る」ということに、心を砕いています。
 「福音」というのは、良いお知らせです。うれしいニュースです。

 

 しかし私たちは、熱心さゆえに、しばしばこんなトーンで語っていないでしょうか。
 「キリストを信じないと、ダメだよ!」、「イエス様を拒むと、地獄に落ちるよ!」、「なぜあなたは福音が理解できないのか!」等々。

 

 確かに、キリストを救い主として受け入れなければ、地獄に行かなければなりませんし、そんなことになってはならないと私たちは切実に願いますが、こうしたトーンで語られると、それはおよそ「福音」ではなく、ほとんど「脅迫」、「強要」に近いものとなってしまいます。

 

 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」 ルカ4:18-19

 

 主イエス様は、人々の前でイザヤ書を開いて、このように読まれましたが、あえて「神の復讐の日(イザヤ61:2)」については、読まれませんでした。
 私たちは、滅びについても、恐れることなくまっすぐに語らなければなりませんが、「神の復讐と滅び」を語るために遣わされているのではなく、「福音と救い」を語るために遣わされているのです。

 

 私は毎日、どうしたらこの福音を、福音として人々に発信できるか、思い巡らせています。

 

 まず私は、「福音の見本」として、福音の中に、生かされていなければなりません。
 この喜ばしい福音を受け取った私は、当然、喜びに満ちて溢れているべきでしょう。
 神の子どもたちの特徴は、「喜び」です。
 私という存在そのものが、福音の広告塔です。

 

 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 マタイ5:14-16

 

 昨年5月から、私は田舎の公園で、早朝に聖書の音読と賛美を始めました。
 日曜日を除く、毎日です。ベンチには屋根が付いており、横なぐりの雨でない限り、決行できるので、幸いなことにほとんど休んだことはありません。

 

 その様子は、明らかにこの世のものではなく、時折、通り過ぎる人も遠巻きに見過ごします。
 しかし、このように怪しげな人物であっても、愚直に継続していると、「何やら理解できないが、真面目な人のようだ」といった印象を植え付け、やがて市民権を獲得していきます。
 寒さの厳しいクリスマス頃に、風邪をひいて、一カ月ほど冬眠しましたが、いつも歩く人々が「あの人は、最近どうしちゃったんだろう。」と心配してくださるほどになりました。
 寒さ対策に、大きな池を取り囲んでいる一周10分間の公園外周を歩いてから、聖書を読むことにしました。
 歩き始めると、歩いている人と自然に会話する機会も与えられるようになりました。

 

 3月末からは、毎日、喜んで話しに来てくださる70歳代の男性も起こされました。
 私は、この交わりがこの世に流されないように、いつも初めに讃美歌を歌い、声に出して父なる神様に祈りを捧げてから、会話を始めるようにしました。
 次第に、聖書を読む暇もないくらいに、福音を語り続けられるようになりました。

 

 ヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。 ルカ3:3

 

 1年経ったとき、この聖書箇所が心に留まりました。
 私は、ヨハネは一箇所で伝道していたとばかり思い込んでいましたが、「ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って」伝道していました。
 私も、そろそろ場所を変えようかと考えました。
 しかし、現在のように、「駐車場、トイレ、ベンチ、テーブル、屋根」が完備された公園は見当たらず、場所を移すことは断念しました。

 

 そんなとき、公園から車でわずかの場所に、自然豊かなハイキングコースがあることを思い出しました。
 数十年ぶりに歩くと、90歳近いおじいさんから、「この林道は健康に良いから、ぜひ歩きなさい。」と強く勧められました。
 私はすでに若くなく、近頃、体力の衰え激しいため、何か運動しないといけないと思いつつも、生来、運動嫌いなので、何も始められなかったのですが、この勧めを受け入れ、公園伝道の後、片道10分(往復20分)だけ、なだらかな坂になっている林道を歩くこととしました。
 そして、林道入り口にあるベンチで、行き帰り1曲ずつ、讃美歌を歌うことにしました。
 目の前には、貯水池があり、その向こうにある緑の山々に向かって、響き渡るようにと祈りつつ賛美するのは、実にすがすがしいものです。

 

 このハイキングコースには、貴重な昆虫や植物などを撮りにカメラを持って来る人、杖を持って山登りに来る人などがいます。
 ここでは、しばし一緒に歩きながら、会話することができます。
 「讃美歌ですか」と声をかけてくださる方もいらっしゃいます。
 どんなきっかけからでも、福音を伝道することはできます。
 自然を愛する人々は、合理主義者の私とは明らかに異なる人種であり、新しい世界を垣間見させられることは、「人間」を知る上で、とても楽しく貴重な経験です。

 

 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。Ⅰコリント1:17

 

 私は、このみことばによって、「福音に安息する」ことを学びました。
 私には、「バプテスマを授けさせる」義務はありません。
 私には、人を救う力はなく、したがって人を救う義務も責任もありません。
 ある人が言われた通り、「救う救わぬは神のこと。信じる信じないは人のこと」です。
 続けて言うならば、「福音を宣べ伝える、宣べ伝えないは、クリスチャンのこと」です。

 

 私たちは、受け入れられても、拒まれても、単純に、愚直に、福音を福音として語り続けましょう。
 私は「バプテスマ」という「結果を出す重荷」から解放されて、喜ばしく福音を宣べ伝えることができるようになりました。
 「本当においしいですよ。あなたもお一ついかがですか。」と。

 

 これは、信者に対しても同じです。
 「~してはならない。」、「~しなければならない。」というメッセージは、「福音」として聞こえない場合があります。
 私はできる限り、「福音」として、「もはや、~しなくても良い。」、「~することが許されている。」と、語りたいと願っています。

 

 さて、生きておられる主様は、体力のない私を顧みて、ラジオ体操をも送ってくださいました。
 6月に入って、ある定年退職者が、テーブルにラジオを持参され、ラジオ体操をしましょうと声をかけてくださいました。
 見るからに柔和な人格者であるこのお方は、いつも公園を歩き、走り、魚釣りをしているので、多くの人脈を持っておられます。
 この方のお誘いで、数人の定年退職者がラジオ体操に集まり、口コミで次第に人が増え、近頃は10名くらい集まります。

 

 私は60~70歳代くらいの高齢男性たちが、キリストを信じないまま、熱中症で死んでは大変と思い、冷たいお茶を用意することにしました。
 体操後、皆で大きなテーブルを囲んで座り、茶飲み話しが始まります。
 ときには、ふと「キリストはいつ生まれたの?」などと質問してくださる方もあり、福音を語る機会が与えられます。
 不思議なことに、メンバーが少ないときほど、じっくり福音に耳を傾けてもらえます。おそよ効率性とは、無縁です。

 

 今月に入って、私はある地方の聖書学び会に行くことができました。
 そして、数人の愛する兄弟姉妹に、この小さな働きについて、簡単にお話しする機会が与えられました。

 

 義人の祈りは働くと、大きな力があります。 ヤコブ5:16

 

 それ以来、公園でも、ハイキングコースでも、恐ろしいほど飢え渇いた人々が引き寄せられてきます。
 魚釣りネットワークの口コミで、定年前の男性が、ラジオ体操に来てくださいました。
 曰く、「きれいなお姉さんが、讃美歌を歌っていると聞いたので、見に来た。」と。

 

 絶句です。自慢ではありませんが、私はすでに若くもなく、頭もかなり白髪が目立ちます。
 しかし、「牛乳配達という職業柄、頭にはスカーフを巻きなさい」という父の言いつけに従って、白髪はスカーフで隠されています。
 60~70歳代のお兄様方の目には、「お姉さん」に見えるやも知れません。

 

 定年退職者たちはみな、まだ元気はつらつですが、「仕事ない、お金ない、やることない」のです。
 人生の目標を知らない方々は、当てもなく、ただ健康維持のために生きているかのようです。
 ここには、聞く条件の整った多くの飢え渇いた人々がおられるのです。

 

 変わり映えのしない日々の中で、特に珍しい話題もない中、「毎朝、大きな声で讃美歌をうたっている奇妙な人物」は、格好のトピックになったのでしょう。
 ニュースとしての付加価値を高めるために、「きれいなお姉さん」という冠が付けられるのは、マスコミでは良く使われる手です。
 本人は、呆れ果てるばかりですが、どんなガセネタであれ、主様が引き寄せてくださるのであれば、感謝です。

 

 私はいつも、ラジオ体操と、茶飲み話が一段落し、みなが三々五々散ってから、賛美し始めるのですが、その方は、まだみなが去らないうちから、「まだ讃美歌は歌わないの?」と催促されました。
 すると、ニュースソースの方も、「僕も讃美歌が聞きたい。」とおっしゃって、初めて、数名の方が耳を傾けてくださる中で、賛美し、また祈りました。

 

 この世の人々は、クリスチャンの祈りを聞く機会は、ほとんどないようです。
 多くのクリスチャンは、人々の前では黙祷するからです。
 しかし、もし同席の方のお許しが得られるなら、ぜひ声に出して祈られることをお勧めします。
 クリスチャンの祈りを耳にしたことのない人々は、クリスチャンの祈りに感動します。それは、この世のご利益を求める祈りとは、本質的に異なるからでしょう。

 

 私は何人もの方から、「お祈りは何種類あるの?」と聞かれました。
 クリスチャンには、思いもよらない驚くべき質問ですが、ほとんどの宗教には、「祈祷定型文」があるようです。
 「祈りとは、父なる神様との会話ですから、何を話しても良いのです。弔電の5番とか、祝電の1番などといったものではないのです。それではほとんど、生きておられるお父さんを馬鹿にしてはいないでしょうか。」とお話しすると、笑いながら、納得してくださいます。

 

 祈りから始めると、自然と神様についての質問が出てきます。
 そうして、1時間ほど、福音を語る機会が与えられます。

 

 ある日、祈っていると、ざわざわと声が聞こえました。
 祈り終えて、顔を上げると、初めて拝見する男性が一人増えていました。
 曰く、「魚釣りの仲間から、いいお話しが聞けるから、あなたも行きなさいと勧められた。」と。

 

 福音は、まさしく人から人へと伝わるものだということを、実感しました。
 信頼できる人から聞く情報に、大きな意味と価値があります。
 私は、福音を語る前に、まず「私という人間を信頼してもらうこと」、人間としての信頼関係を結ぶことが大切なことを学びました。

 

 しかし近ごろ、私にとって、この働きは、恐怖になりつつあります。
 毎日、何人もの人に福音を語り続けなければならないというのは、大変なプレッシャーです。
 福音は、物理的な現象ではなく、科学的に説明することのできないものです。
 福音をきれいな形で、うまくお伝えすることのできないもどかしさ、不甲斐なさに、泣きたくなります。

 

 収穫は多いが、働き手が少ない。
 だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。 マタイ9:37-38

 

 それでも、私は福音によって、福音を語り続けたいと思います。
 私は、福音に安息します。
 私には、絶望的に力も知恵もありません。しかし、主様にとって、器のつたなさは何の障害でもありません。
 私は、単純に主イエス様を喜ぶ者として、喜ばしく福音に安息します。
 そして、受け入れられても、拒まれても、与えられている力の最善を尽くして、福音を、福音として、お伝えしたいと思います。

 

 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。 Ⅰコリント9:23

 

 私は単純に、与えられているお一人ひとりを喜んでいます。
 ここでお会いする方々は、今はまことの神様に背を向け、反抗して歩んでいますが、私にとっては、まるでかわいい子どもたちのようです。
 多くの人がそうであるように、長い間、社会で働き、戦い続けてこられたこれらの方々は、人から混じりけのない愛情を注がれたことがないかのようです。
 「もし○○したら、愛してあげる。」、「あなたが△△なら、愛してあげる。」と、この世の愛を受けるには、一定の条件を満たしていなければなりません。
 私は、暗闇の中で闘い続けてこられたこれらの方々に、単純で、混じりけのないキリストの愛を注ぎたいと願っています。
 私はこの方々の元気な笑顔を見られることを、本当に嬉しく思っています。

 

 パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります。」と言った。 使徒20:10

 

 この方々には、「まだいのちがあります!」。
 私は、そのことを毎日、喜んでいます。
 毎朝、お一人ひとりと出会うたびに、恵みの日が一日、加えられたことを喜び、キリストのまなざしをもって、愛を注ぎたいと願っています。
 愛は、氷のような人の心を、温め、溶かしてくれるでしょう。
 私は、「神の慈愛が悔い改めに導くこと(ローマ2:4)」を信じています。
 その愛が、燃える炎のように熱ければ、なお幸いでしよう。

 

 何の力もないけれど、単純で、忠実な神のしもべたちを通して、神の全能の御力が豊かに働かれますように。

 

 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。
 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」 ヨハネ4:34-38