いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「主を知ること」こそ、「いのち」また「力」である

 

 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。 ヨハネ5:39-40

 

 私たちクリスチャンは、私たちの主イエス・キリストを信じたことにより、「永遠のいのち」をいただきました。
 「いのち」の性質を思うとき、すべての人にとって最も大切なことは、「いのち」の有無です。「いのち」を持っていない人は、当然ながら、死んでいます。

 私たちは今、主イエス・キリストの恵みによって、「永遠のいのち」を持つ者とされました。
 「いのちを持っている者」にとって重要なことは、「いのち」の質量、力の強弱ではないでしょうか。

 

 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。 ヨハネ10:10

 

 私たちは、単に「いのち」を保持しているだけではなく、豊かに持たなければなりません。
 私たちは、ただ自分自身を養うために、「いのち」をいただいたのではありません。
 この「いのち」は、拡大し、増殖し続ける、強烈な意志を持っています。私たちは、「いのち」の繁殖のために、この「いのち」をますます豊かに持たなければなりません。

 

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。 ヨハネ11:25

 

 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 ヨハネ14:6

 

 改めて言うまでもなく、この「いのち」は、「私たちの主イエス・キリスト」そのものです。
 キリストは、ご自分のいのちを、多くの人々に分け与えるために、尊い犠牲、贖いとなられました。

 

 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 マルコ10:45

 

 一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 ヨハネ12:24

 

 私たちは、この「いのちの重さ」を知り、この「いのちの切なる願い」を知らなければなりません。
 この「いのち」には、一つの意志があります。

 

 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。 ヨハネ12:50

 

 キリストは、御父のみこころを行なうために、御父から遣わされました。
 御父のご命令とは、究極的に「永遠のいのち」であり、キリストは、ただこのご命令をまっとうするために、いのちをかけて、この世に下って来てくださいました。
 父なる神様のご意志は、「永遠のいのち」です。
 キリストのご意志も、「永遠のいのち」です。
 今や、「神によって、キリスト・イエスのうちにある(Ⅰコリント1:30)」私たちの意志も、当然、「永遠のいのち」です。

 

 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 ヨハネ17:3

 

 「永遠のいのち」とは、「御父と御子を知ること」です。
 私たちは、御父と御子を知り、信じたことによって、「永遠のいのち」に入れられました。
 私たちは、この「いのちにあって」、ますます「唯一まことの神」と「御父の遣わされたイエス・キリスト」を知るように、招かれています。

 

 律法を知らないこの群衆は、のろわれている。 ヨハネ7:49

 

 パリサイ人は、「律法」を知っていましたが、「生けるまことの神であるキリスト」を知りませんでした。
 しかし私たちは、「生きておられる神、またキリスト」を知るのです。

 

 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」
 イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」 ヨハネ8:19

 

 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。 ヨハネ14:7

 

 キリストを知る者は、御父を知るのです。
 キリストは、御父を知らせるために、この世に来られたのです。

 恥ずかしながら私は、キリストの「歴史」について、ほとんど何も知らないと言っても過言ではありません。
 しかし私は日々、キリストのみことばである聖書を読み、祈りを通して、生きておられるキリストとお会いすることによって、「私は生きておられる神である主イエス・キリストを知っています。」と告白することができます。

 確かに「知識」は、「愚かさ」に勝ります。
 しかし私が神に切に願うことは、「知識」に富んでいることよりも、「いのち」に富んでいることです。
 私はたとえ雄弁でなくても、私を見る者が、死ぬべき私のうちに「キリストのいのち」を見ることができることです。
 私は「知識」を与えられなくとも、「いのち」を分け与えることができる者とされることです。

 

 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。 Ⅱコリント4:10-12

 

 神である主は、エデンの園の中央に、二種類の木を生えさせました。
 それは、「いのちの木」と、「善悪の知識の木」でした。
 「善悪の知識の木」の実は、食べると死ぬので、「死の木」と言っても差し支えないでしょう。
 二種類の木は、「いのちの木」と「死の木」でした。

 新約で明らかにされたのは、神の奥義である「永遠のいのち」でした。
 「永遠のいのち」とは、「神とキリストを知ること」でした。
 「いのちの木」とは、「神とキリストを知る木」とは呼べないでしょうか。
 二種類の木とは、「神とキリストを知る木」と、「善悪を知る木」とは言えないでしょうか。

 

 兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。
 律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。

 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。
 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。

 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
 ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。
 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。 ヤコブ4:11-17

 

 終わりの時代の私たちの周りには、先人たちが労苦して主様からいただいた神の知恵を書き記してくださった、数多くの信仰書があります。また多くの学び手も与えられています。
 こうして信仰生活が長くなると、自分自身では、さしたる犠牲を払わずとも、「知識」が増し加わります。
 確かに、「他の人」を通して学んだ知識であっても、私たちを大いに助けてくれますが、「安易に得た知識」は、往々にして人を高ぶらせ、「善悪の知識の木」として働き、「あの人は、○○していない。」、「この人は、××している。」などと、心の中でさばくようになってしまうのではないでしょうか。

 しかし聖書も言うように、「さばきを行なう方」は、神おひとりです。
 私たちは、「善悪を知る」のではなく、「さばきを行なう方ご自身」を知らなければなりません。
 「善悪を知る」ならば、「死」に至り、「神とキリストを知る」ならば、「いのち」に至ります。

 「神とキリスト」は、自分自身で知らなければなりません。
 自分自身では、ほとんど直接、お会いしたことのない方を、自信と確信を持って誰かに紹介できるでしょうか。
 「神とキリスト」は、「他の人」を通しては、決して「真に知る」ことができません。
 自分自身で労苦して、またキリストのあわれみを受けて、「生きておられる神とキリスト」を真に知るならば、私たちはキリストの謙遜とあわれみ深さをも学び、その学んだことは、決して私たちを高ぶらせることはないでしょう。

 

 それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。
 わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。 ヘブル8:10-11

 

 私たちクリスチャンには、真理の御霊が与えられました。
 もはや誰からも教えられる必要はなく、みな直接、神ご自身を知ることができるのです。
 これは旧約の時代には、思い浮かびもしなかったような、すばらしい恵みです。

 

 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。 ヨハネ6:63

 

 聖書のみことばは、御霊とともに私たちのうちに働いて、「いのち」を増し加えてくださいます。

 

 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。 Ⅱペテロ1:2-3

 

 「永遠のいのち」とは、「神とキリストを知ること」です。
 ある人は言いました。
 「神である主の素晴らしさを知り尽くすためには、永遠という時間が必要である。」

 私たちは、永遠のいのちをいただいて、この生きておられる神とキリストを知り始める「いのち」に入りました。
 私たちはやがて天の御国で、顔と顔を合わせて、この素晴らしいお方を仰ぎ見ることができるでしょう。
 そのようにして神である主を知ることは、どんなに幸いなことでしょう。

 確かに、天に帰れば、みな神である主を知るでしょう。
 しかし、天にあっても、私たちは地上で主様を知った到達点に応じてしか、神である主を知り始めることは、できないのではないでしょうか。
 私たちは地上においても、「神とキリスト」を、さらに豊かに知りましょう。

 

 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。 ホセア6:3

 

 神とキリストを知れば知るほど、私たちの「いのち」は増し加わり、力を増し加えます。
 「神とキリストを知ること」こそ、私たちの「いのち」、また「力」です。
 神の御力に覆われることを望む者は誰でも、みことばを通して、御霊によって、祈りによって、「神とキリストを知ること」を、切に追い求めましょう。

 

 神の国はことばにはなく、力にあるのです。 Ⅰコリント4:20

 

 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。
 それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。 Ⅰヨハネ5:20