聖徒たちのすべての教会で行なわれているように、教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。
もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。 Ⅰコリント14:33-35
このみことばは、日本語では「妻」と訳されていますが、英語では「women」と訳されているように、女性を示しています。
聖書は、神の教会では、女性は「黙っていること」がふさわしいと、教えているのです。
私は、自分が「姉妹であること」を、本当に口惜しく、無念に思っています。
私が兄弟であったなら、イザヤのように、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。(イザヤ6:8)」と叫んだことでしょう。
主様にとって、私が粗末な器であることは、問題ではありません。主様は、卑しい器であっても、志さえあれば、お用いになることがおできになります。
しかし、どんなによく磨かれた器であっても、志がないならば、お用いになることはできません。主様は、私たちの自由意思を最大限に重んじられるからです。
このところ私は、終わりの時代の煮詰りを感じつつ、自分のだらしなさは棚に上げて、イザヤのような志を持った兄弟方が、あまりにも少なく見える現状に苛立ちながら、主様に問い続けています。
主よ。なぜ私は姉妹でなければならないのでしょうか。姉妹であることには、一体どんな意義があるのでしょうか。
そんなある日、私は一つのみことばに、心を捕えられました。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 ヨハネ17:3
あれ?聖霊が入っていない…。
生けるまことの神様は、「三位一体の神」であるのに、なぜ、「永遠のいのちとは、神と、キリストと、『聖霊』を、知ることです。」と書かれていないのだろう…。
助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 ヨハネ14:26
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 ヨハネ15:26
その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。 ヨハネ16:13-15
聖霊、すなわち真理の御霊は、「キリストのことばを思い起こさせ」、「キリストについてあかしし」、「キリストのものを受けて、私たちに知らせ」ます。
聖霊なる神様は、「ご自身を知ってもらうこと」ではなく、むしろ「キリストを知らせること」を目的としておられます。
「永遠のいのち」、すなわち、「父なる神様と、御子イエス・キリストを知ること」とは、「御霊が与えてくださる恵み」なのでしょう。
私は、ご自分を現わすことなく、「隠れたところ」で偉大な働きをしておられる、御霊のまったきへりくだりに非常な興味を抱きました。
すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。
しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。
男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。 Ⅰコリント11:3-7
ここでも聖書は、女は「かぶり物を着けること」、つまり「頭を隠すこと」を教えています。
つまり、神の教会では、女は「隠され」、「黙っている」ように、教えているのです。
しかし、霊的な意味においては、「女のかしらは男」ですから、「男すなわち人間が隠され、キリストだけが現わされること」を教えています。
私は、主様から「永遠のいのち」と「聖霊の働き」を教えられたとき、「隠され」、「黙っている」、「女」は、まさに「聖霊なる神様」と、同じポジションにあることに気付かされました。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。 ローマ8:26-27
御霊ご自身は、「黙って」おられ、ただ深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださっています。
御霊は、「隠され」、「黙って」おり、私のように無頓着な愚か者からは、あたかも存在しないが如くに軽んじられていますが、「隠れたところで」、どれほど忠実かつ熱心な働きをしてくださっていることでしょう。
神の聖霊を悲しませてはいけません。 エペソ4:30
御霊は、私のようにわきまえのない愚か者から疎んじられても、愚痴一つこぼされませんが、三位一体の神ご自身ですから、当然、感情はあり、悲しんでおられます。
また御霊は、大変、慎み深く、穏やかで、私は聖書の中に、怒ったり、激したりする局面を見出すことができません。
同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。
たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。
それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。
あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。 Ⅰペテロ3:1-4
「無言のふるまい」、「柔和で穏やかな霊」、「心の中の隠れた人がら」、これらはまさに、聖霊の働きと相似形をなしています。
聖霊なる神様は、実にユニークなポジションを取っておられます。
聖霊は、「神の御霊」とも呼ばれ、「キリストの御霊」とも呼ばれているように、父なる神様の「エッセンス」であり、また御子イエス・キリストの「エッセンス」なのではないでしょうか。
「エッセンス」とは、「本質的なもの」、「最も大切な要素」です。「植物から抽出した香気の高い精油」との意味は、まさに御霊の油にぴったりです。
父なる神様と、御子イエス・キリストの「本質」、「最も大切な要素」とは、「その心」でしょう。
わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。 エゼキエル11:19
今、私にとって聖霊とは、「御父の心」、また、「キリストの心」です。それは、「一つの心」、「同一の心」です。
クリスチャンは、聖霊の宮として、「御父の心」を宿し、「キリストの心」を宿しています。
「御父の心」、「キリストの心」を宿すにふさわしい場所、それは当然、「私たちの心」です。
御霊による、心の割礼こそ割礼です。 ローマ2:29
あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ガラテヤ4:6
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。 Ⅰコリント2:11
いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。 Ⅰコリント2:16
御霊が、「御父の心」、「キリストの心」であるとすれば、当然、「本体である、御父とキリスト」を知らせます。
私たちの礼拝すべき焦点は、「本体である、御父とキリスト」です。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 ヨハネ14:1
ここでも、「神を信じ」、「わたし(キリスト)を信じなさい」であって、「聖霊を信じなさい」とは、書かれていないのです。
私たちの信仰の対象は、「本体である、御父とキリスト」です。
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。 ヨハネ14:16-19
約2000年前、隠されていた「神の奥義であるキリスト(コロサイ2:2)」は、地上に目に見える形で現わされました。
人となられた神、現わされた神、これは盲目な私たちにとって、実に素晴らしい恵みでした。
しかし、人の姿をお取りになられたキリストは、やがて地上から取り去られます。
わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。
それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。 ヨハネ16:7
私たちの外側にお越しくださったキリストは、地上から取り去られましたが、キリストの十字架による贖いにより、さらに豊かな恵みが与えられました。
今やキリストは、「キリストの御霊」、「キリストの心」として、信じる者たちの内側に、いつまでも、ともに住んでくださっています。もはや、御霊は私たちクリスチャンから、取り去られることがありません。
それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。 ヘブル8:10-11
私たちクリスチャンには、「神の御霊」、「キリストの御霊」があります。「神の心」、「キリストの心」は、「神のみこころ」を教えてくださいます。
われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 創世記1:26
生けるまことの神様は、「三位一体のご自身のあり方を、地上に啓示する」ための「型」として、「人」を創造されたのではないでしょうか。
人となられた「キリスト」は、「父なる神様」の型。
「男」は、「御子イエス・キリスト」の型。
「女」は、「聖霊」の型として、「地上に表現すること」を、ご計画されたのではないでしょうか。
三位一体の「御父」、「御子」、「聖霊」は、やがて、「御父」、「御子」、「御子の花嫁」となるでしょう。
「御父」、「御子」、「御子の花嫁」が三位一体であるのは、「同じ聖霊を持ち」、「その心がまったく一つ」であるからです。
主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。 Ⅱ歴代誌16:9
「御父」、「御子」、「花嫁」は、三重円になっています。
「御父の心」の中心に、「御子」はおり、「御子の心」の中心に、「花嫁」はあります。三重になった円の中心にあるのは、「聖霊」、すなわち「心」です。これは、「まったき愛の心」です。
「御父」、「御子」、「御子の花嫁」は、「心において完全に一つ」なのです。
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。
そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。
それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。 ヨハネ17:20-23
生けるまことの神様が、「三位一体の神」であられるのは、「互いに愛し合う関係」を表現するためでした。
父なる神様は、御子を愛されました。ここに表現されているのは、「親子の愛」です。これは血のつながりによる濃厚な愛、理屈を超えたパワフルな愛、決して切れることのない強靭な愛です。
父なる神様の愛は、御子に注がれ、御子に集中しています。
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 マタイ3:16-17
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。 マタイ12:17-18
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。 マタイ17:5
父なる神様は、「その愛する御子」のために、「御子の花嫁」を造られました。ここに表現されているのは、「夫婦の愛」です。
父なる神様は、本質的に、花嫁を愛したのではありません。「御子を愛した」がゆえに、「愛する御子」のために、「御子の花嫁」を造られたのです。
その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 創世記2:18
そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。 創世記2:21-24
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。 エペソ5:31-32
花嫁は、「愛する御子」のからだの一部分、愛を現わす胸の骨から造られました。
「愛する御子」から取り出された花嫁は、「愛する御子」と「愛によって結ばれて」、再び、「一心同体」となるのです。
今や花嫁は、「愛する御子とひとつ」となったので、「愛する御子のうちにあって」、「御子に注がれている御父の愛」を、ともに享受する祝福にあずかるのです。
父なる神様が愛しておられるのは、本質的に、「御子おひとり」です。御父の愛は、ひたすら御子に集中しています。
ダビデのミクタム。ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに
神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。 詩篇57-57:1
私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなるいつくしみによって私をあわれんでください。 ネヘミヤ13:22
すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。 マタイ20:30-31
ダビデは、神のあわれみを乞いました。
ネヘミヤも、神のあわれみを乞いました。
ふたりの盲人も、主のあわれみを乞いました。
聖書には、神様にあわれみを乞うた多くの人々が登場しますが、だれも神様に、「私を愛してください。」とは、言いませんでした。だれも神様に、「私を愛してください。」とは、言えなかったのです。
聖い神様は、本質的に、罪人を愛することがおできになりません。
罪ある私たちには、神様に愛していただく何の資格もありません。
私たちは、ただ神様のあわれみにおすがりするより他、なすすべもないのです。
確かに、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3:16)」のですが、それは、愛する「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」です。
罪人に過ぎない私たちが、御父から愛していただけるのは、「愛する御子」を信じる「私たちの御子に対する愛」のゆえです。
御父から、私たち罪人に注がれているのは、「愛」というより、むしろ「あわれみ」に近いものではないでしょうか。
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。 ヨハネ13:1
御父の愛は、「御子イエス・キリスト」を通して、私たちにまで及びました。
キリストは、私たち罪人を、非常に深い愛で、愛してくださいました。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。 ヨハネ15:9
御父は、本質的に「御子を愛した」のです。それは、非常に深い愛、強い愛、激しい愛でした。
そして御子は、罪人に過ぎない私たちを、ご自分のいのちをお捨てになるまでも、愛してくださいました。
御子は、「わたしの愛の中にとどまりなさい。」と言われました。
「御子の愛の中」には、「御父の愛が溢れるばかりに注がれている」からです。
父なる神様の愛は、一心に御子に注がれています。
私たちは、「御子のうちにある(在る)」ことによって、「御子のうちに注がれている愛」を享受できるのです。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。 ヨハネ15:10
愛は、行ないによって、現わされます。
口先だけの愛は、信頼するには充分ではありません。
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。(Ⅰヨハネ5:3)」
愛する者は、当然、愛するお方のことばを信頼し、守ることによって、愛を現わそうとするでしょう。
愛とは、相互関係です。愛を現わす者は、同時に相手の愛を受け取り、相手の愛の中にとどまります。
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。 コロサイ3:2-4
「キリストの花嫁」は、かつてキリストの胸から取り出されました。
そしてキリストは、大胆にも、御自ら、御からだを裂かれることによって、分離していた「キリストの花嫁」を、再び、御からだのうちに入れてくださり、「隠され」ました。
あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。 Ⅰコリント1:30
キリストの心、キリストの御霊、キリストの花嫁は、今は、この世の人々の目には、「隠され」ており、見えません。
隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。 マルコ4:22
しかし、後には天で、キリストの花嫁が現わされます。
御霊も花嫁も言う。「来てください。」 黙示録22:17
私たちはキリストのからだの部分だからです。
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。 エペソ5:30-32
「キリストの花嫁」、「からだなる教会」は、今なお、人々の目には隠されている「神の奥義」です。
地上にあっては、「隠されていること」こそ、神のみこころです。
その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 創世記2:18
男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。 Ⅰコリント11:9
「花嫁なる教会」は、「愛する御子」のために造られました。
女は、男のために造られました。
女は、男の「助け手」として造られました。
御霊もまた、「助け主」と呼ばれています。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。 Ⅰコリント12:27-28
教会の役割リストに、「助ける者」などという種類があったとは、迂闊なことに気付きませんでした。
「助ける者」の働きとは、いったい何でしょうか。
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。 ヤコブ1:5
先日、当地の特別学び会に、近隣の集まりからも、多くの兄弟姉妹が集ってくださいました。
そこで私は、ひとりの若い兄弟との、昼食の交わりに恵まれました。
彼は、幼いうちに病にかかり、わずか9歳で車イス生活が始まったとのこと。今はほぼ寝たきりで、自力ではほとんど何もできないような状態です。
養護学校にクリスチャンの教師がおられたことがきっかけで、信仰を持たれたとのことでした。
学び会では、他の兄弟方が、聖書を開き、食事からトイレの介助まで仕えておられました。
幼い子どもにとって、この病は、どんなに過酷な重荷、不条理であったことでしょう。
彼は、「キリストを信じて、自分の病の意味が、何となくわかったような気がした。」と言っておられました。
彼が「自力でできること」は、ほんのわずかです。
彼を助けてくださる兄弟姉妹の働きは、実に尊いものです。
しかし、人の助けを借りなければならないことは、大変なへりくだりが要求されます。
しかも、食べるにしても、飲むにしても、自分が快適に感じられる微妙なタイミングやフィーリング通りにしてもらうことは、ほぼ不可能でしょう。
私は、「キリストにある彼の生き様」を垣間見て、多くのことを考えさせられました。
私にとって、「私が姉妹であること」は、不条理です。
しかし、今の私に理解できても、できなくても、神のされることは、すべて正しいのです。
私には、まだ「私が姉妹であること」の意味はわかりません。
しかし、不条理を、不条理のまま、しっかりと抱きかかえて生きることこそ、真にへりくだった人の姿なのではないかと、彼の姿を通して、教えられました。
この不条理を、拒むのではなく、目をそむけるのではなく、不条理をも自分の確かな一部分として受け止めつつ、神ご自身がみこころをさやかにお示しくださるときまで、神に信頼して、へりくだって歩み続けること。
私は今、そこを歩みたいと願っています。
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。
こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。 創世記22:3-4