いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

あわれみ深いキリストの模範にならう

 

 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。
 しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。 ローマ14:4

 

 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。 ローマ14:10

 

 クリスチャンの交わりに、疲れ果てている兄弟姉妹がおられます。
 彼らは、いつ倒れても不思議ではないような有様で、かろうじて主様の御名のゆえに、集会に集っておられます。
 私は彼らの心の悲鳴を聞かされ、胸が引き裂かれるような痛みを覚えています。
 それは、私の痛みというよりも、キリストの痛みです。

 

 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。
 「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて言われた。
 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 マタイ9:10-13

 

 「正しい人たち」は、いつも「罪人たち」をさばきます。
 「あの姉妹は、スーパーの特売の話しかしない。」
 「あの人は、人の評価ばかりを気にして、神様を見ていない。」
 「あの兄弟の『病気がいやされることが神様のみこころである』という捉え方は、間違っている。」

 「正しい人たち」の「判断」は、私自身も、概ね、正しいと思います。
 しかし、残念ながら、こうした「判断」が、他の兄弟姉妹を助けることは、ほとんどないのです。
 「正しい人たち」の「判断」は、多くの場合、直接、当人に届けられることはなく、ただ「正しい人たち」の間だけで確認され、「正しい判断」としての確信を深めて行きます。
 「正しい人たち」が祈りつつ、慎重に、当人に伝えたとしても、「罪人たち」は、さばかれたことに、つまずきを覚えるばかりです。
 こうして、「正しい人たち」と「罪人たち」の溝は、ますます深まり、クリスチャンの一致は破壊されていきます。

 

 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。 マタイ12:7

 

 いったい「正しい人たち」とは、何者なのでしょうか。

 

 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。
 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 ヨハネ8:7

 

 人間のうちに、「義人はいない。ひとりもいない。(ローマ3:10)」のです。
 しかし、私たちクリスチャンはみな、「信仰によって(ローマ5:1)」、「キリストの血によって(ローマ5:9)」、「義と認められた」のです。

 クリスチャンのうちに、「正しい人たち」と「罪人たち」という二種類の人がいるわけではありません。
 正確に言うならば、「さばく人たち」と「さばかれている人たち」がいるのです。
 しかしそれも、二種類の人が存在するわけではなく、私たちは、いつでも、どちらにも、なりうるのです。

 「さばく人たち」の特徴は、「知識」を持っていることです。
 そして、その「知識をもって」、「知識のない人たち」をさばき、さげすむのです。
 確かに、「知識」は「愚かさ」に勝ります。
 しかし「知識」は、両刃の剣であり、正しく用いられてこそ、有益なものとなります。

 

 知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。 Ⅰコリント8:1

 

 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。
 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。 Ⅰコリント8:11-12

 

 アダムが「善悪の知識の木」から食べたとき以来、私たちは、何かの言動を見るとき、ほとんど無意識のうちに、常に「善悪を判断している」のではないでしょうか。
 「あれは悪である」、「これは善である」、「それは誤っている」、「これは正しい」。

 とりわけ受験世代の私たちは、ほとんどのことを一瞬のうちに、「○」か「×」で、ふるい分けているのではないでしょうか。
 マークシート世代の私は、「どちらでもない」という回答を忌み嫌います。
 「わからない」という回答は、ほとんど「愚かさの証明」です。
 私たちは、「神のように」、あらゆる問題に、「正解を持っていたい」のです。
 「正解を知っている」とき、私たちは「安心感を持つ」ことができます。
 結局、私たちは、「自分が安心感を持つために」、「自分自身の平安のために」、自分を「正解を持つ者」、「義」とし、「自分の正解と異なる者を罪と定めたい衝動に駆られている」のではないでしょうか。

 しかし、たとえ他の人が「罪を犯している」としても、だからといって私が「無罪」とされるわけではありません。
 罪とは、他の人との比較によって、相対的に決まるものではないからです。
 「あの人の罪」は、神の御前にあり、私とは関係がありません。
 しかし、私自身は、神の御前に、「私の罪」を問われるのです。
 「知識のある人」には、その与えられている恵みに応じて、よりキリストの知恵にふさわしい柔和な行ないが問われるはずです。

 

 主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。
 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。
 すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。 ルカ12:47-48

 

 キリストは、「いけにえ」ではなく、「あわれみ」を好まれました。
 さばきをなさる唯一のお方が、もし「あわれみの神」でなかったなら、私たちはすでに滅ぼされています。
 罪人を、あわれんでくださるお方であったからこそ、滅ぼされるべき私たちは、類まれなる御救いにあずかったのです。
 「遠く離れたところから、知識によって人を見定める」のではなく、「近づいて行って、あわれみによって人を見つめる」とき、まったく異なったものが見えてくるのではないでしょうか。

 

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。 Ⅰテモテ1:15

 

 このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。 Ⅰテモテ4:9

 

 事実、真実とは、本質的に、「人の議論や評価」の対象ではなく、「そのまま受け入れるに値する」のみです。
 その事実が、好ましかろうが、忌まわしかろうが、事実であることに変わりはありません。
 事実を否定したがる、認めようとしない、拒もうとするのは、人の弱さです。
 忌まわしい事実から目をそむけたからといって、それがなくなるわけではありません。

 

 先日、奇妙な夢を見ました。
 海外のある浄水器メーカーが、日本に向けて商品を販売しようとしていました。
 その浄水器は、母国では「販売不適」とされたので、急ぎ、日本で在庫を処分したかったのです。
 しかし、そこには、巧妙なトリックが隠されていました。
 そもそも、その浄水器は、「ある有害物質を、遊離することに成功した」というのが謳い文句でした。
 けれども、「遊離すること」は、「除去すること」ではないので、母国では「販売不適」とされたのです。
 ところが、「遊離する」という原語は、日本語では「除去する」と訳すことも可能な言語で、現在の経済産業省では、その翻訳でも認可されるので、この間隙をついて、在庫を売り切ってしまおうという企みだったのです。

 

 私たちは、都合の悪い事実、受け入れたくない事実を、しばらくの間、自分から「遊離すること」が、できるかも知れません。
 しかし、その事実は、「除去された」のではありません。「遊離したまま」存在し続けているのです。
 私たちは、どんな事実であっても、事実から始めなければなりません。
 もし事実を受け入れる勇気がないならば、私たちは「嘘つき」、「白く塗った墓」を作り出すだけでしょう。

 

 ある姉妹は言いました。
 「元気がないね、って言われるのは、心配して言ってくれているのだと思う。でも私は、そう言われると、元気なふりをしなければならないんだと思ってしまう。」

 私たちは、みなが元気な顔をしていると安心するのです。
 彼女の言葉を聞きながら、私は本質的に、「自分の安心のために」、元気な兄弟姉妹を見たいのだと気付かされました。 
 私たちの集まりの中に、何の問題も見出さないなら、私は「自分の安心感」を手に入れることができます。
 私たちの集まりの中に、何がしかの問題を見てしまうなら、私は「自分の平安」が脅かされてしまうのです。

 このような「自分の平安」は、常に、「他者」と「環境」に依存しています。
 「自分の平安」を維持するためには、絶えず、「他者」と「環境」をコントロールし続けなければなりません。

 

 その姉妹は、泣いていました。
 「私はもうこれ以上頑張って、兄弟姉妹の期待に応えきれない。私には、からし種くらいの小さな信仰しかない…。こんな私でも、兄弟姉妹は受け入れてくれるかな…。」

 彼女は、自分が兄弟姉妹に受け入れられていないように感じ、「兄弟姉妹に受け入れられるために」、精一杯の努力をしていました。
 「自分の平安」を求める私たちが、知らず知らずのうちに、そうさせてしまっていたのです。

 

 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。 ヨハネ14:27

 

 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」 ヨハネ16:33

 

 キリストは私たちに、「この世のものではない平安」、「キリストにある平安」を与えてくださいました。
 私たちは、世にあっては患難があり、問題があります。
 しかし私たちには、患難も、あらゆる問題をも、乗り超えて余りある、「キリストの平安」があるのです。

 

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。 ガラテヤ5:22

 

 御霊の実は、愛に始まり、喜びに満たされ、平安に至ります。

 

 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。 ピリピ1:3-5

 

 パウロはいつも、兄弟姉妹を喜んでいました。
 彼らの集まりの中には、絶えず問題があったのですが、それにも関わらず、兄弟姉妹のために、喜びをもって祈り、兄弟姉妹のことを、神に感謝していました。
 今なお、多くの人々が神に逆らい、福音を拒んで、永遠の滅びに向かって進んでいる暗やみの世界にあって、「からし種の信仰を持つことができた」ということは、どんなに素晴らしい恵みでしょうか。
 兄弟姉妹は、「からし種ほどの信仰を持つことができた」という、ただその一点だけで、充分過ぎるほど尊く、たとえようもないほどに価値あるものです。

 私たちは、ともに信仰によって、キリストのうちに入れられた兄弟姉妹を、心から感謝して喜び合いましょう。
 たとえ現在、多くの知識を持っておらずとも、「からし種ほどの信仰を与えられたがゆえに」、大いに喜び合おうではありませんか。

 

 いったい私たちは、すべての点において、「正しい知識」、「正しい判断力」を持っているのでしょうか。
 いったい誰が、神の御霊を与えられている兄弟姉妹に向かって、不遜にも「あなたは間違っている」と言いうるのでしょうか。
 それは、神の御霊を侮ることではないでしょうか。
 神の御前に、私たちは愚か者に過ぎないことを心に留めて、恐れ慎んでこう言うべきでしょう。
 「私としては、聖書のみことばから、御霊から、現在、このように教えられています。」

 私たちは、他の人をさばく責任も資格もありません。
 私たちは、誠実に、自分が教えられていることをお伝えし、吟味していただくことができるだけでしょう。
 互いに心を開いて、親切で、誠意ある交わりを持つことができるならば、互いに真理に目を開かれることでしょう。

 

 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。 ヨハネ16:13

 

 私たちは、どのような事実も、寛容な心でしっかりと受け止め、事実から逃げ出すことなく、あわれみをもって近づきましょう。
 事実とは、「評価する」ためにあるのではなく、「理解する」ためにあるのです。
 大切なことは、「神のように」、「○」か「×」かを判定することではなく、「愚か者として」、「不可解なもの、不条理なものを、ありのまま受け止めて行く、勇気と力」ではないでしょうか。
 「私には、わかりません。」と告白することは、この世にあっては、恥のしるしです。
 しかし、「さばきをなさる唯一のお方」の御目には、真に喜ばれる、謙遜な人としての態度ではないでしょうか。

 

 ―肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。― Ⅱコリント12:2

 

 すべての事実には、それなりの理由と根拠があります。
 御霊を与えられているクリスチャンであるならば、どのような言動をとっていたとしても、正しいと信じて行動しているはずです。
 それが、神のみことばにふさわしくないのであれば、悔い改めに導くのは、私たちのさばきによるのではなく、「神の豊かな慈愛と忍耐と寛容(ローマ2:4)」です。
 私たちは、神の慈愛と忍耐と寛容をもって、互いに近づき、愛し合うことを学びましょう。

 

 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
 こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。 ローマ15:1-7

 

 真に役立つのは、「口先の教え」ではなく、「実際的な愛の模範」です。
 「模範」は、決して人を傷つけることがありません。
 「模範のない教え」は、罪人に反抗の口実を与えるだけです。

 

 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。 ヤコブ3:13

 

 私たちは、人を教える前に、自分自身を教えなければなりません。
 もし聖書のみことばに従っていないクリスチャンがいるとすれば、それは聖書のみことばに従っているクリスチャンの模範がないからだと考えた方がよいでしょう。
 私たちがパウロのように、「私を見ならう者になってください。(ピリピ3:17)」と言える者になることを真に願うならば、神は私たちの願いを聞き入れ、その歩みに感化される兄弟姉妹たちをも起こしてくださることでしょう。

 

 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。 ヨハネ12:47

 

 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 ヨハネ3:17

 

 キリストは、世をさばくために来られたのではなく、世を救うために来られたのです。
 私たちは、このキリストの模範にならいましょう。

 主よ。どうか愚かでわきまえのない私たちが、再び、他の人をさばくことがありませんように。
 私たちが互いにさばきあうことによってではなく、あわれみ深いキリストの模範にならうことによって、与えられている兄弟姉妹を喜び、愛し合うことによって、しっかりと結びあわされ、キリストのからだを建て上げて行くことができますように、どうかあわれみをもって、助け、導いてください。

 

 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。
 私の愛する人たち。ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。
 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。

 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。
 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。
 そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。 ピリピ4:1-9