いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

来なさい。子たちよ。

 

 わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。 エレミヤ30:21

 

 神である主は、私たちに問うておられます。
 「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。」

 

 月曜日の朝、恐らく私は、一週間のうちで最も疲れ果てています。
 土曜日には、福音伝道集会があり、主日の朝には、礼拝(パン裂き集会)があり、午後には福音伝道集会があります。
 もし、福音伝道集会で、「真の福音」が語られず、「自分の考え」が語られるなら、「聖書のみことば」ではなく、「この世の知恵のことば」が語られるなら、私たちは「まことのパン」に飢え、いのちに満たされることのないまま、帰らなければなりません。
 私は主の宮で、ひもじい思いをしておられる求道者、また兄弟姉妹の曇った顔を見なければなりません。

 しかし、姉妹である私が、主の宮で許されていることは、限られています。
 私は心のうちで絶えず叫んでいます。

 人間的な工夫によって、この世の話題から無理矢理、聖書を説明するのではなく、聖書のみことばから、単純に、まっすぐ、聖書の中に明らかに示された神のみこころを解き明かしてください。
 福音は、「神の恵み」です。「罪人の権利」ではありません。「人権」ではありません。
 私たちは、「進化論よりも創造論の方が論理的に優れていることを弁明する」のではありません。私たちの罪のために「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」のです。

 まさに、今は亡きある兄弟が、いみじくも語られたとおりです。
 「君が主イエス様の弁護士なのか。主イエス様が君の弁護士なのか。」

 

 それゆえ、主なる万軍の神、主は、こう仰せられる。
 「すべての広場に嘆きが起こり、すべての通りで、人々は『ああ、ああ。』と言い、農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を知っている者たちを呼んで来て、嘆かせる。すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ。」と主は仰せられる。

 ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家にはいって手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。

 ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。 アモス5:16-21

 

 私は、私たちの現状を見て、打ちのめされ、月曜日の朝、つぶやきます。
 「姉妹なんて、つまらない。」
 「姉妹である私が、ほとんど顧みられることのない高齢の兄弟姉妹を慰め、励ましたとしても、公の場で真の福音が語られないのなら、それがいったい何になるのか。」
 「姉妹であることは、むなしい。」

 疲れ果てた私は、主様のみもとへ行くことすら、むなしいことのように感じられ、ずるずると起き上がろうとしません。
 しかし主様は、決して私をお責めにはなりません。
 私はそれを、主様の「愛」と感じ、「ある種の福音」の如くに、甘えてきました。

 しかし、父なる神様が、真に求めておられたのは、「わたしに近づくためにいのちをかける者」でした。
 生けるまことの神様は、神の民である私たちに、「堕落する自由」すらも、お与えになっておられたことを知り、「クリスチャンに与えられている自由」の偉大さに、改めて圧倒されました。

 

 「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」 エペソ5:14

 

 私がだらだらと眠っていることが許されているのは、主様の「愛」というより、むしろ「ご忍耐」でした。
 私たちに、「堕落する自由」すらもお与えになるその中で、奮い立って、主イエス様にすがる者たちの、その自発的な愛を、熱烈な愛だけを、神様はお求めになっておられるのです。

 

 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。
 すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。
 それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。 レビ10:1-3

 

 かつて聖なる神に近づくことが許されたのは、祭司だけでした。至聖所にまで、近づくことが許されたのは、年に一度であり、大祭司だけでした。
 勝手な者が、勝手なときに、勝手な方法で、神に近づくならば、聖なる神のきよめ尽くす火によって、焼き尽くされました。
 良くも悪くも、「神に近づく者」によって、神様は「ご自身の聖」を現わされます。「ご自身のご栄光」を現わされます。

 いったい私たちは、神に近づくにふさわしい者でしょうか。
 私たちも、むしろ焼き滅ぼされることによって、神ご自身の聖と、ご栄光を現わすのに、ふさわしい器ではないでしょうか。

 

 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 ヘブル10:19-22

 

 しかし、私たちには今、キリスト・イエスの完全ないけにえにより、その裂かれた御からだと、流された御血によって、「新しい生ける道」が備えられました。
 これこそ「主のまっすぐな道(使徒13:10)」、「いのちの道(使徒2:28)」、「信仰の道(使徒13:8)」、「救いの道(使徒16:17)」です。

 

 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。 エペソ3:12

 

 このキリストの備えられた道、いのちの道は、キリストの引き裂かれた御からだの中にある道、紅く、聖く、熱い血潮で塗られた尊い道です。
 この道を通ることは、畏れ多く、かたじけない限りです。
 私たちは、これを恐縮して辞退すべきでしょうか。
 しかし、すでに神の子羊はほふられたのです。私たちの罪のために。

 

 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 マタイ4:17

 

 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 ルカ24:13-15

 

 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。
 「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイ28:18-20

 

 私たちが神に近づいたのではなく、天の御国が、私たちに近づいてくださったのです。
 主イエス様の方から、私たちに近づいてくださったのです。
 そして、いつも私たちとともに、いてくださるのです。

 

 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 ヨハネ14:6

 

 わたしについて来なさい。 マタイ4:19、8:22、9:9、16:24、19:21

 

 渇く者は来なさい。 黙示録22:17

 

 この道を通って、神に近づきましょう。
 この世のものを後にし、いのちをかけて、神に近づきましょう。
 生けるまことの神様は、この唯一の道を通って、ご自身に近づく者を求めておられます。
 「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。」

 主よ。どうか眠れる私たちの霊を奮い立たせ、目を覚まし、立ちあがらせてください。
 あなたは私たちのために、生けるまことの道を開いてくださいました。
 悪い、終わりの時代にあって、私たちが弱った手と衰えたひざをまっすぐに伸ばし、あなたにすがりついて、この道を前進し続けることができるように、どうか力強い御手をもってお導きください。

 

 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。 黙示録1:3

 

 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。 黙示録22:10

 

 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。 詩編34:11