いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

福音を高らかに「宣言」し、大胆に「告知」せよ

 

 わたしを遣わした方は真実です。 ヨハネ7:28、8:26

 

 わたしは真実をあなたがたに告げます。 ルカ9:27、12:44、21: 3

 

 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。 ヨハネ3:33

 

 私たちクリスチャンは、「常に真実である(Ⅱテモテ2:13)」キリストのみことばを信じ、確認の印を押しました。
 真実とは、事実です。それは人の主観や、都合によって、左右されることも、動じることもありません。

 

 父には移り変わりや、移り行く影はありません。 ヤコブ1:17

 

 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。 Ⅰペテロ1:23-25

 

 真実は、一つです。唯一です。

 

 わたしと父とは一つです。 ヨハネ10:30

 

 私たちは、この真実なお方を宣べ伝えます。
 「宣べ伝える」とは、単に「伝える」こととは、まったく異なります。
 宣べ伝えるとは、「宣言して伝える」ことです。
 真実には、権威があります。真実は、人の議論や評価の対象ではありません。
 人は、真実の前に、ただ黙して、ひれ伏さなければなりません。

 

 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。 マタイ4:23

 

 「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
 そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。 ルカ4:43-44

 

 主イエス・キリストは、神の御国の福音を、この世の人々に、「権威を持って宣言する」ために、父なる神様によって遣わされました。
 そして、あらゆる地方で、御国の福音を「宣教」されました。

 真実とは、私の考えに合おうが、合うまいが、私の気に入ろうが、入るまいが、私にとって都合が良かろうが、悪かろうが、変わることがありません。
 人は、「私はそれを認めない。」と言うことはできますが、それによって真実が立場を失うことはありません。
 サウロは、「イエスがキリストである(使徒5:42)」という真実を、かたくなに拒み、猛烈に反抗していました。

 

 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。 使徒9:17-20

 

 サウロは、主イエス・キリストのあわれみによって、目を開かれ、真実を受け入れました。
 真実を知らされたサウロは、ただちに「イエスは神の子である」と高らかに「宣言」し始めました。

 

 そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。 使徒18:5

 

 真実とはまた、「告げ知らせる」べきものです。
 「告げ知らせる」とは、単に「知らせる」ことではありません。
 真実とは、厳粛なものです。
 それが、「人のいのちにかかわる真実」であれば、知らせても知らせなくてもどちらでも良いということにはなりません。
 「人のいのちにかかわる真実」は、はっきりと「告げ知らせる」べきものです。
 もし重要な事実が、あらかじめ選択者に告知されていないならば、「告知義務違反」となります。

 

 このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。 Ⅰテモテ4:9

 

 真実とは、人の議論の余地のないものです。人の勝手な解釈を許さないものです。
 真実とは、ただ「そのまま受け入れるべきもの」です。

 それでは、だれがその重要な真実を告知すべきでしょう。
 言うまでもなく、すでに真実を知らされている者たちです。

 

 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。 マタイ5:20

 

 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。 ヨハネ3:3

 

 わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。 ヨハネ8:26

 

 主イエス様は、まったく真実、誠実に、真実をそのまま、懇切丁寧に、繰り返し、繰り返し、世に「告知」されました。
 主イエス・キリストは、ご自身をお遣わしになった「真実なお方から聞いた真実」を、そのまま世に「告知」されました。
 そこには、主イエス様の主観や、都合は混じりませんでした。

 

 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。
 それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。 Ⅰヨハネ5:19-20

 

 今、私たちクリスチャンは、神の御子の「宣教」を通して、真実なお方を知る理解力を与えられ、真実なお方のうちに、イエス・キリストのうちにいます。
 それで私たちも、真実なお方の、真実なみことばを、高らかに「宣言」し、大胆に「告知」するのです。

 

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
 私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。 Ⅰテモテ1:15-16

 

 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。 Ⅱコリント4:1-2

 

 かつて、神に反抗し、反逆して歩んでいた私たちが、イエス・キリストのあわれみによって罪を赦され、今や、この偉大な福音、尊い御救いを「宣言」し、「告知」する、素晴らしい務めに任じられているのです。
 この恐るべき神のへりくだりと、あわれみのゆえに、ただ感謝します。
 私たちは、かつての自分たちがどのような者であったかを、決して忘れることなく、神の御前にひたすら慎み、畏れつつ、そしてなお大胆に、喜びほめたたえつつ、この偉大な神の福音を「宣言」し、「告知」しましょう。

 

 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。 Ⅰコリント1:17

 

 「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。(黙示録7:10)」のです。私たち自身には、「人を救う力」はなく、したがって、「人を救う義務」もありません。
 私たちの目標は、「バプテスマを授けること」ではありません。たとえ人が、私たちの「宣べ伝え」、「告げ知らせる」真実なお方を、認めなくても、私たちは責任を問われることはありません。
 これは力のない私たちにとって、福音ではないでしょうか。
 私たちは負いきれない重荷を負って、うめき苦しむ必要はありません。

 

 ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。
 私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。 使徒20:26-27

 

 私たちは、「福音を宣べ伝えさせるため」に遣わされた者たちです。
 この喜ばしい良い知らせを、単純に、喜びをもって、「宣言」すれば良いのです。「告知」すれば良いのです。

 

 イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」 マタイ17:11-12

 

 律法学者たちは、エリヤを「認めようとせず」、自分たちの都合によって「好き勝手なこと」をすることを選びました。
 人は、神のご忍耐によって、地上では、真実を認めず、自分勝手な生き方を選ぶことが許されています。

 

 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。 ルカ12:9

 

 しかし終わりの日に、真実を認めない者は、すでに「告げ知らされた真実」にしたがって、真実なお方とはまったく交わりのない「永遠の火(マタイ25:41)」に入らなければなりません。

 

 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。 ヨハネ16:7-8

 

 私たちには、「真実を告げ知らせる責任」があります。
 しかし私たちには、「真実を認めさせる力」はありません。
 喜ばしいことに、主イエス様は、力のない私たちのために、助け主を遣わしてくださいました。
 助け主、真理の御霊が来ると、罪について、義について、さばきについて、この世の身勝手な理解の誤りを認めさせてくださいます。

 

 あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。
 話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。 マタイ10:18-20

 

 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 ヨハネ15:26

 

 私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。 Ⅰコリント2:4

 

 私たちの福音「宣教」は、本質的に、御霊の現われであり、御霊の働きです。
 主イエス様も、「神の御霊によって悪霊どもを追い出している(マタイ12:28)」と言われました。
 悪霊に対抗できる力とは、神の御霊です。
 私たちは、この御霊に従い、御霊の与える剣である、「権威ある神のみことば」を受け取りましょう。

 

 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。
 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。 エペソ6:12-20

 

 そのためには、日々、聖書に親しみ、みことばをしっかりと蓄えておきましょう。
 そして、御霊によって、すべての聖徒たちが、福音を大胆に「宣言」し、「告知」できるように、祈りましょう。
 御霊に導かれるまま、恐れることなく、喜びをもって、慎み、畏れつつ、この福音を「宣べ伝え」、「告げ知らせ」ましょう。

 

 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。
 エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。
 ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」
 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。
 見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。 イザヤ40:9-10