いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

御霊によって、「霊の世界」で勝利を喜ぶ

 

 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。 ピリピ1:3-5

 

 ある朝、このみことばの一節が聞こえて、目を覚ましました。
 「喜びをもって祈り…」。
 私はこのみことばに、しばし愕然とさせられました。
 「喜びをもって祈り…」。

 私たちクリスチャンには、多くの「祈るべきこと」があります。
 私たちは、自分の日々の必要のために、祈らなければなりません。
 そして、祭司として、他の人たちの必要のためにも、祈らなければなりません。
 飢え渇いた人々の救いのために、祈らなければなりません。
 キリストのからだが建て上げられるように、祈らなければなりません。

 

 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。 ローマ15:30

 

 私は、神の御前に祈るとき、地上にある多くの困難と、問題を思います。
 私にとって、祈るときとは、尽きることのないあらゆる問題を思い起こさせられ、否応なく向き合わされるときです。
 そして、眉間にしわを寄せるような状態で、父なる神様に助けを求めます。
 私たちの霊の目が開かれることを求め、私たちの悔い改めを求め、悟りを求め、知恵を求め、力を求めます。
 それはあたかも、「苦情申し立て」時間のようです。

 

 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」 ルカ18:5

 

 主イエス様は、「うるさいやもめの苦情申し立て」を、おほめになりました。
 このやもめは、何度でも足を運んで、愚直にお願いし続ければ、必ず、道は開かれると、堅く信じ、熱心にその信仰を実行しました。
 確かに神様は、たとえ苦情申し立てのような祈りであっても、喜んでお聞きになってくださいます。
 この場合、「祈り」=「産みの苦しみ」です。

 しかし、パウロは、「あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈った」のです。
 驚くべきことに、「いつも」です。
 私には、「祈り」=「喜び」という図式が、到底、理解できませんでした。
 それで私は、この御声を聞いて、怪訝に思い、眉間をしわを寄せてしまったのです。
 「喜びをもって祈る」とは、いったいどういうことなのでしょう。

 

 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。 ローマ8:26-27

 

 祈りについて、もっとも良く知っておられるお方は、キリストの御霊ご自身でしょう。

 私は、早朝の牛乳配達の仕事に導かれたため、幸いなことに、早起きすることが習慣化されてきました。
 私の理想とするところは、3時から祈り、4時から聖書を朗読し、5時から朝食をとり、仕事に出かけることです。
 しかし、低血圧で、体力のない私にとって、早起きはやはり高いハードルです。
 情けないことに私は、肉の弱さを言い訳にして、しばしば惰眠をむさぼっています。
 しかし主様は、そんな私をも、決してお責めにはなりません。私はそんな主様の御前に、いつも深く頭を垂れて、お詫びするとともに、こんな私をもあわれんで、ご忍耐をもって導き続けていてくださる主様の愛を、さらに深く覚えて感謝します。

 そして私は、すべてのことは、「血肉の世界」で完成する前に、すでに「霊の世界」で完成していることを思い起こしました。
 私は、「3時から祈る」という計画を立てたものの、「3時から祈れるように」とは、祈っていなかったことに気付かされました。

 

 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 エペソ6:12

 

 私は、「血肉の世界」で悪魔に打ち負かされる以前に、すでに「霊の世界」で不戦敗していたのです。
 私たちは、「血肉」と直接対決するのではありません。「血肉の世界」での勝敗は、「霊の世界」で決しています。
 私たちは、「霊の世界」で、「天にいるもろもろの悪霊」に対して勝利を収めてから、「血肉の世界」に出て行かなければなりません。

 

 「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。 ヨハネ11:3-6

 

 主イエス様は、愛するラザロが病気であることをお聞きになりましたが、「神の栄光のために」、「神の子が栄光を受けるために」、なお二日とどまられました。
 この二日間、主様は、「霊の世界」で勝利を収めるべく、祈りに専心しておられたのではないでしょうか。

 

 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」 ヨハネ11:7-10

 

 祈りが父なる神様に聞き届けられ、「霊の世界」で勝利を確信された主イエス様はようやく、「血肉の世界」でもその勝利を現わすために、立ち上がられました。
 しかし、「血肉の世界」しか見ていない弟子たちは、それは非常に悪いタイミングであると、呆れ果てました。

 

 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」 ヨハネ11:11-15

 

 主イエス様は、祈りによって、「神が死者をよみがえらせるということ(使徒26:8)」を弟子たちに信じさせるために、時間をかけて、これらのことを忠実に行なわれました。

 

 イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」 ヨハネ11:41-43

 

 「霊の世界」で勝利を収めておられた主イエス様は、確信と喜びと平安をもって、父なる神様に感謝しました。
 主イエス様は、「霊の世界」で格闘され、すでに勝利しておられたので、「血肉の世界」では、ただ一言で、ラザロをよみがえらせることがおできになりました。
 私たちが「霊の世界」で勝利しているなら、「血肉の世界」には何の闘いも困難もありません。
 しかし、私たちが「霊の世界」で勝利していないのなら、「血肉の世界」でどんなに汗水流しても、勝ち目はないでしょう。

 私は、どんなに小さく思われることでも、自分の決心や、自分の努力でできそうに思われることであっても、祈りによって、主様の御助けを仰ぐことなしには、霊的な働きは何ごともできないことを教えられ、「明日、3時から祈れるように」と、祈りました。

 翌日、いつものように目覚ましアラームが鳴ると、すっくと起き上がって祈り始めたのは、なんと私のうちにお住まいになっておられる御霊でした。
 起き上がって、祈り始められたのは、私ではなく、紛れもない御霊だったのです。
 それは私にとって、驚異的なビジョンでした。

 

 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 Ⅰコリント3:16

 

 私は、私の「死ぬべきからだ」が、「神の神殿」とされていることの偉大な意味を見ました。
 なんとこの「朽ちるからだ」が、三位一体の神ご自身の「会見場」とされていたのです。
 父なる神様と、御子イエス様、そして御霊ご自身が、この私のうちで、いとも親しく交わっておられたのです。
 なんという恐るべき、へりくだりでしょうか。

 

 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 その方は、真理の御霊です。 ヨハネ14:16-17

 

 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。 ヨハネ14:19-20

 

 私たちクリスチャンは、父なる神様のふところにおられる、キリストのうちにある者であり、私たちのうちには、キリストの御霊が宿っておられます。
 私たちは、この三位一体の神ご自身によって、三重に守られています。
 キリストは、父なる神ご自身からはみ出されることはなく、私たちは「キリストの御霊」という錨によって、キリストのうちに堅く据えられています。
 御霊は、同心の三重円の円心に、「私たちのからだ」を堅く据える「不動の錨」として位置し、「罪人のからだ」という薄暗い、もっとも隠れたところに、あたかも存在していないが如くに、まことにつつましくお住まいになっておられます。

 この御霊は、父なる神様と、御子イエス・キリストとの一つの交わりを、どんなに強く切望しておられたことでしょう。
 惰眠をむさぼるだらしない私が、この御霊を、三位一体の交わりから遠ざけ、苦しめていたのです。

 

 「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。 ヤコブ4:5

 

 父なる神様もまた、御霊との交わりを、切に慕い求めておられました。
 父、子、聖霊は、三位一体であり、一つです。
 それらは決して、分離することができません。
 私は、私のうちで、寝ぼけた私を取り残して、父、子、聖霊が、熱く抱擁し合うように喜んで親しく交わっておられるご様子に、呆然としたまま浸っていました。

 そして私は、今日まで、私に悟られることもなく、ひそかなところで、日々、とりなしに格闘しておられたキリストの御霊ご自身の敬虔に、打ち砕かれました。
 この御霊が、私のうちにあって、すべての良き働きをなしていてくださったことを、ようやく知りました。
 すべては、私ではなく、御霊のお働きであったのです。

 

 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 ヨハネ15:26

 

 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。 ヨハネ16:13-14

 

 隠れたところで、へりくだって仕えられ、ご自分を現わされることなく、ひたすらキリストと、そのご栄光を現わされるお方。
 私のような者のうちに、愚痴もこぼさず、鎮座あそばされ、あまつさえ、とりなしに励んでいてくださるお方。
 私たちは、このお方から、その生き方をさらに深く学ばなければなりません。

 

 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 Ⅱコリント3:17

 

 御霊は、私たちに自由を与えてくださいますが、その前に、私たち自身が、御霊に自由を与えなければならないのではないでしょうか。
 私たちの肉が、安逸をむさぼり、御霊の自由を妨げるなら、御霊はその働きを充分に私たちにもたらすことはできないのです。

 

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 御霊を消してはなりません。 Ⅰテサロニケ5:16-19

 

 私たちの肉が、御霊の自由を殺し、御霊を消すとき、「いつも喜んでいること」も、「絶えず祈ること」も、「すべての事について感謝すること」も、できなくなるでしょう。
 これらはすべて、御霊の働きだからです。

 

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。 ガラテヤ5:22-23

 

 「喜びをもって祈り」、それは、御霊の喜びでした。
 御霊は、「三位一体の神ご自身の親しい交わりの場である祈り」を、どんなに深く喜んでおられることでしょう。
 私の肉は、祈りの時間を喜ぶことができません。
 しかし、私のうちに住んでおられる御霊は、畏れ多くも、この私の「死ぬべきからだ」を「祈りの場」として、三位一体の神ご自身の「会見の天幕」として、お選びくださったのです。
 私たちは、この素晴らしい謙遜なお方、敬虔そのものであられるお方に、「死ぬべきからだ」を明け渡そうではありませんか。
 私には、正しく祈る力はありませんが、御霊はみこころにかなった祈りをしてくださいます。

 

 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。
 そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 エペソ6:18

 

 主よ。無力な私たちが、このような者たちのうちに、へりくだってお住まいくださっている御霊ご自身について、さらに深く悟ることができるように、助けてください。
 御霊ご自身が、三位一体のきよき交わりをどんなに熱く望んでおられるかをさらに教えられ、私たちがこのからだを聖い生きた供え物として、御霊ご自身に明け渡していくことができますように、どうか助け、導いてください。

 

 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 ローマ12:1-2